「……そろそろのようですね」
メイドが茶器を並べていた手を止めて耳をすませた。同じように部屋の外へ耳をやってはみたが、アリスには何も聞こえない。
「そうかしら?」
「気配がします。もう二分もすればいらっしゃいますよ」
再び手を動かしながら、メイドは当たり前のことのように言った。ここの人間はみんな見かけによらない。きっとメイドの言うことに間違いはないだろう。
「そう」
「お茶のお支度、できました」
仕事に出ていたエリオットが帰っていることも、メイドから聞いていた。いつものように先にブラッドに報告に行くだろうと判断して、二人分のお茶の準備を頼んでおいたのだ。
「じゃあ後は私がやるわ。ありがとう」
アリスは椅子から腰を上げて、ポットからティーコゼーを取りのけた。
「では、失礼しまぁす」
なんとなくどこかが省略されたような適当なお辞儀をして、メイドが退室した。
アリスはお茶の支度がととのったテーブルをひとわたりチェックした。セッティングは何も欠けていない。この屋敷はこういうところにも隙がないのだ。陶器ははかないほど薄く、銀器は一点の曇りもなく磨かれて窓から射し込む昼の光に輝いている。エリオットの好きなお茶うけは準備万端だし、自分用ににんじんレスのスコーンも目立たないように用意してある。
「よし、完璧」
呟いた途端、部屋の主がドアを開けた。
「お帰りなさい、エリオット」
「ただいま……って、いい匂いだな。お茶の時間か?」
軽いハグと頬へのキスの後、エリオットはテーブルに興味を移した。
「エリオットの分もあるわよ。帰ってくるのが聞こえたから。でも、今日はビバルディのところへ行ったんでしょう? あちらでもお茶だったんじゃないの?」
「そりゃ茶は出たけどな、考えてもみろよ、あそこで俺用に用意してあるヤツをはいいただきます、って飲み食いできるか?」
「……しにくい、かも」
「だろ?」
「じゃあ、ここで安心してどうぞ召し上がれ」
「アリスってほんっと優しいなぁ」
エリオットは、かすかな硝煙の匂いと幸せオーラを撒き散らしながらテーブルについた。カップを手にして目を細める。
「俺って愛されてるよなぁ」
突然しみじみとこんなことを言われて、自分のカップにもお茶を注いでいたアリスの手が止まった。
「急にどうしたの?」
「帰ってきたら、アリスがちょうど食いたいものを用意して待っててくれるんだぜ?」
キャロットマフィンにキャロットケーキ、キャロットクッキーにキャロットジュレと、お茶うけは確かににんじん尽くしだ。
でも、こうやって待っていたのは、留守がちな彼は気づいていないかもしれないが、もうほとんどの時間をここで過ごしているからだし、食べたいものが用意してあるのはちょっとした思惑があるからなのだけれど。
噛まれることにはもううんざりだった。本人は甘噛みのつもりかもしれないが、跡がつくほど噛まれれば後までじくじくと痛みが残る。にんじん断ちをなんとか終わらせてからはそんなこともなくなって、アリスはほっとしていたのだ。が、最近試みににんじん料理の割合を減らしてみたら、悪夢のような噛みぐせが復活してしまったのだ。にんじんを食べさせれば収まるのはわかっていても、かといって毎日の食事がまたにんじんに埋め尽くされるのも正直厳しい。だからたまにはお茶うけくらいゆずったほうがいい、という結論にアリスはたどりついたのだった
エリオットは目の前のキャロットマフィンによだれがたれそうな顔をしている。アリスは黙ったままカップにミルクを加えた。
本当のことを教える必要はまったくない。エリオットが幸せなのはいいことだし、かわいく喜ぶエリオットが見られれば私も幸せだ。
「私はお昼もしっかり頂いたし、今あるものはエリオットが全部食べていいのよ」
「ほんとか、アリス!」
ウサギ耳がピンと立った。にんじんデザート尽くしのテーブル越しに、ぎゅううううっと両手を握られる。
「俺はあんたが好きで、アリスは俺を好きだなんて、もうそれだけで俺、俺……」
目をキラキラさせて、一体何を言い出すんだろう。止めればよかったのについ好奇心で続けさせてしまったのが間違いだった。
「すっげー幸せなのに、これくらいにんじんを用意するんだから、やっぱアンタはにんじんが好きなんだろ? 俺もにんじんはそんな嫌いじゃないし、やっぱり好みは似てる方がいいもんな! やっぱアリスは最高だぜ!」
的外れだけどきゅーんとくるようなことを言ってくれるのは嬉しかった。が、握った手にさらに力が入れられて、手が砕けそうになる。
「そんなふうに言ってもらえるのは嬉しいんだけど……私……にんじんは……」
大好物ってほど好きじゃないの、むしろ最近はあなたのせいで苦手なのという、手を引き抜こうと試みながらの反論は、ノックの音でさえぎられた。
「入るぞ、エリオット」
返事も待たずに、ブラッドがずかずかと部屋に入ってくる。アリスはやっと解放された手を膝の上に戻し、そっと動かしてみた。少ししびれているがなんとか大丈夫そうだ。アリスはほっとして慎重にカップを手にした。いくらエリオットがかわいすぎるとはいっても、甘ったるい雰囲気が続くと胸焼けしそうになる。正直いたたまれない空気を換えてくれたブラッドに感謝しながら、カップを口に運んだ。
「よぉ、ブラッド」
上機嫌なエリオットがブラッドにひらひらと手を振った。
「ごきげんよう、ブラッド」
「おや、アリスじゃないか。最近見ないな」
それはそうだ。ここ何日かはこの部屋にこもりきりだった。エリオットがいるときは部屋から、というかベッドから出してもらえなかったし、エリオットが外出してからもなんとなくだらだらとここにいた。
「そうね、お久しぶり」
「仲の良いのはいいことだが」
わざらしくにやっと笑ってから、ブラッドはエリオットに向き直った。
「エリオット。先ほどの報告だが、ひとつ聞き忘れたことがあった」
「なんだよ?」
返事をしながらも、エリオットの視線はキャロットケーキにちらちら向かう。耳もふらふらと落ち着きがない。そんなエリオットに、ブラッドは処置なし、という顔をして続けた。
「女王のほかには誰がいた? キングは?」
「……んー? 昼行灯はいなかったぜ。女王と白ウサギ……二人だけだった」
「そうか、いなかったのか」
ブラッドは眉をひそめ、ステッキの握りの部分で手のひらを軽く叩いた。
「なら」
「……思い出した!」
バーン、とテーブルに手をついて、エリオットが立ち上がった。テーブルの上の一輪挿しが大きく震え、ゆらりと傾く。アリスは慌てて手を添えてそれを阻止した。
話の出鼻をくじかれたブラッドが露骨に嫌な顔をするのにもかまわず、エリオットは大声で続ける。
「あんのウサギ野郎! 挨拶も何も、真っ先に『僕のアリスは元気ですか?』なんて聞きやがんだぜ!」
アリスは手の中の一輪挿しの首をぎゅっと握った。心の中を冷や汗がだらだら流れている音が聞こえる。
「ほう……、それでどんな返事をしたんだ、エリオット? まさか黙って言わせておいたのか?」
エリオットは憤懣やるかたない、といった顔で、もう一度テーブルを強く叩いた。綺麗に積み上げられたマフィンがいくつか飛び上がり、止める間もなく床に転がり落ちる。
「んなわけねぇだろ、言い返してやったぜ。『俺のアリスはすっげぇ元気だぜ?』ってな。そしたら、『あなたのだなんて言わないで下さい、僕のアリスが汚れます』なんて嫌そうな顔して言いやがるんでつい面白くなっちまってさ、『残念だな、アリスはもう
頭のてっぺんから爪先まで、俺のモンになったんだぜ』って言ってやったら、白ウサギのくせして真っ青になってやんの。見ものだったぜ、青い顔にあの赤い目がついてんだから」
なんだそれは。アリスは椅子に沈み込みそうになった。
内容はともかく、やりとりは完璧にこどもの喧嘩レベルだ。くだらない。
それにしても、そこまでペーターを苛めなくてもいいだろうに。
「それで、その耳か」
「耳?」
ブラッドの言葉に、アリスはエリオットの耳に目をやった。右耳の先の方がほんの少しだけ焦げている、ような気がする。
ペーターへのかすかな同情は即座にアリスの中から消え去った。
エリオット(のウサギ耳)を傷つけるなんて、まともな人間じゃない。もともとペーターはまともではないけれど。
エリオットからウサギ耳がなくなってはただのにんじんマニアのマフィアになってしまう。かわいさも半減どころか激減だ。このかわいさも罪だが、それを奪ってしまうのはありえないほどの重罪だ。
「大丈夫なの? 見せてみなさいよ」
「かすっただけだって」
アリスは慌てて立ち上がり、エリオットの後ろに回った。椅子に座らせてそこを観察してみれば、確かに薄茶色の毛がほんのり焦げ茶色に変わっているだけで傷は見当たらない。焦げた部分をそっとつまんでみると、焼けて膨らんだ毛が指先でぱらぱらと崩れる。これくらいならすぐに毛が戻るだろう。アリスはひと安心して席に戻った。
「帰りにいきなり撃ってきやがった。ま、ざまぁみろって感じだけどな。あいつ、ほんとにアリスのことになるとしつっけーぜ。お前もアイツに近づくんじゃねぇぞ。……またアイツと会ってみろ、どんなことになるか俺にもわからないからな」
ちらりとこちらを見た視線の剣呑さに息を呑む。
「ええ、ともかくエリオットが無事で良かったわ。で、ビバルディは……?」
「ほう、アリスはあの宰相と懇意だったのか?」
ブラッドがおおげさに肩をすくめた。
「ああ……」
エリオットの声が低くなる。
この×××野郎……!
アリスは内心でブラッドを力いっぱい呪った。せっかくペーターから話を遠ざけようとしたのに、この一言で台無しだ。ブラッドは絶対にアリスの意図をわかっていて言ったに違いない。
「そうだったよな、アリス」
「……ええ」
「そうだった、とは今現在はそうではないんだな」
「そのはずだぜ? ……なぁ?」
声に険が加わってさらに凄みが増した。
「まさか、あの白ウサギと会ってるとかはねぇよな?」
実は何日か前に、ビバルディに会いに行ったときに会ったとは、とてもじゃないが口に出せない。
「ええ、会ってないわ。それに私が一番好きなのはいつもあなたよ、エリオット」
自分のセリフのあまりのうそ臭さに、語尾が少し震えてしまった。が、このくらいストレートじゃないとエリオットには伝わらない。
「……愛だな、エリオット。少々妬けるくらいだ」
笑いをかみ殺したようなブラッドの言葉。
「妬く? そんなこと言わないでくれよブラッド! 俺はブラッドのことも愛してるぜ!」
瞬時に場が凍った。
最近、あまり照れもせずにアリスに言えるようになったせいか、とっさにその言葉が出てしまったらしい。
確か出会った頃も、誕生日じゃない誕生日のお茶会で、同じような言葉を聞いた。『大好きだ!』だったか。
大好き、の威力でさえブラッドをむせさせるには十分だった。愛してる、と言われたブラッドは無言のまま、ギギギ、と音がしそうな緩慢さでアリスの方を向く。
にやりと笑ってやれば、ブラッドの眉間にぐっと縦皺が現れた。ざまぁみろ、だ。
「そうだ、今日はアリスが俺のためにお茶を準備してくれてたんだぜ。すごくねぇ?」
輝かんばかりに機嫌を直したエリオットは何もなかったように唐突に話を変えた。
「……すばらしいな」
テーブルの上を一瞥したブラッドが、さもさも嫌そうに同意する。
「だろ? なぁ、ブラッドも寄ってけよ」
「いや、水入らずのところに割り込むのも無粋だ。遠慮しておく」
ブラッドがちらりとドアに目をやった。そのまま一歩後退しかけたが、エリオットはそんなブラッドを逃がさなかった。さっと立ち上がり、アリスがひいた椅子にぎゅうっと肩をおさえるようにして座らせる。
「邪魔なんてこたねぇよな、アリス?」
「ええ、そんなこと全然。お茶をご一緒できて嬉しいわ、ブラッド」
お前もこの艱難辛苦を味わいやがれ、と穏やかに誘えば、ブラッドの眉間の皺がさらに深さを増した。
アリスはチリン、とベルを鳴らしてメイドを呼んだ。ほんとはカウベルのように威勢よく鳴らしたいくらいだったが、そこはなんとか抑えた。
「失礼します。御用ですか~?」
相変らず、急ぐようすもないメイドが現れた。
「ブラッドの分の席も用意してちょうだい」
「私は……」
何か言いかけたブラッドの言葉をさえぎって、アリスは続けた。
「……大急ぎでね」
テーブルの下で、ブラッドの足を力一杯ぎりぎりと踏みつけながらも、あくまでにこやかに。
「はい、かしこまりました~」
悠長な返事とはうらはらに、三人目の用意はありえない早さで整えられた。多分彼女たちはこうなることを予期していたのだろう。きっと裏ではボスの苦境を皆が楽しんでいるに違いない、とアリスは思った。
「……余計なことを」
ブラッドの囁きはうなり声に近かった。
「あなたもさっき余計なことをしたじゃない。よくも煽ってくれたわね」
囁き返す。
「それにどうして今日はこんなアレづくしなんだ?」
キャロットケーキのフロスティングをフォークの先でつつきながらブラッドが尋ねた。
「仕方ないでしょ、かまれると痛いのよ。あなたも同じ目にあってみなさいよ」
女王の城で何も食べなかかったのは本当らしい。エリオットは、ふるふる揺れるキャロットジュレの山を無言で攻略している。集中しているらしく、耳の先まで力が入っているのが見てとれた。
「以前は同じ目にあっていたさ」
「噛まれたの?」
「いや、私はにんじんに負ける程度のつまらん男だからな。ヤツは私のために我慢することなどなかったさ。それに、そんな気色悪い目にはあいたくはないな」
アリスはスコーンにクリームをのばしていた手を止めた。
エリオットがブラッドを噛む。確かに気色悪い光景ではある。あまり想像したくない。
「気色悪い部分は除いて、痛いところだけでも体験してみればいいのに」
「ごめんこうむる。私は痛いのは好きではない」
「私もよ。……どうして私たち、こういうことを我慢しているのかしら? 私もにんじんに負ける程度でよかったのに」
大きく切りわけたケーキがぽろりとクロスに落ちた。エリオットの耳が一瞬気まずそうにしょんぼりと垂れる。が、すぐにひょいと摘み上げて皿の上に置き、にやりとこちらに笑ってみせた。
「負けても結局はにんじんづくしだぞ。……でも君は、我慢しているだけではないんだろう?」
微笑み返すアリスに、ブラッドがつぶやいた。
エリオットは幸せそうにキャロットケーキを口に運んでいる。もくもく食べるあたりは、どこか小動物の雰囲気がある。
見ているだけでしみじみ和む。じんわり幸せになれる。とても手に入れやすい幸福なのかもしれない。
「……そうね」
見られていることに気づいたエリオットが、フォークを持ったまま首を傾げた。
「なんだよ、二人ともじろじろ見て」
「なんでもないわ。それよりエリオット、お茶のおかわりはいかが?」
アリスは笑顔で立ち上がった。