アリスが銃声を聞いたのは、残業帰りの路上だった。
乾いた音が数回、続けざまに夜更けの空に響く。
思わず立ち止まって耳をすませたアリスに、同僚のユーニスがおびえた声で尋ねてきた。
「何かあったのかしら?」
「そうね。でもあまり近くじゃないみたい」
「そうかしら。……でも怖いわね」
アリスは凍りついた石畳に視線を戻しながら答えた。
「……行きましょう」
会話はそれきり途絶えた。二人とも口を開くのもおっくうなくらいに疲れていた。
使用人のように裏口から家に入る。表から戻るには今日は遅くなりすぎた。
静まりかえった家の中を忍び足で歩く。真っ暗な部屋には火の気がなく冷えきっている。
手探りでランプをつけたアリスは、急いで服を脱ぎ、震えながら冷たいベッドに滑り込んだ。
寒さがゆるみ、体の緊張がほどけ始めたとき、耳の奥にさっきの銃声が甦ってきた。
それから、一瞬聞こえた声も。
アリス。
「呼ばないで」
そんな優しい声で呼ばないで。
アリス。アリス。アリス。
──聞きたくない。
思わず両手で耳をふさぐ。
あれは夢。
現実じゃない。本物じゃない。
あの人の声が聞こえたのは、うまくいかなかった今日に疲れているからだろう。
そもそもあの夢の世界で彼が自分にしてくれたことといったら、ろくなことじゃなかったのに。
生ぬるく浮かれた夢の中の恋人は、いかにもその世界にふさわしく異常だった。
けれど、自分の何もかもを好きでいてくれた。大事にしてくれていた。
だからこそ辛かった。夢だとわかっていても思い出すたびに辛かった。
大事にされたことをうらんではいない。それでも現実とのギャップはその深さ分だけ惨めだ。
学校を出てフルタイムで働くようになって、アリスは初めて自分の力不足を痛いほど感じていた。『女の子にしてはよくできる』『よく働く』という以前の評価は、あくまで見習いとしてのそれに過ぎなかった。給金も、自分ひとりがかつかつ食べていくにはなんとか足りる程度で、あれだけ出たいと思っていた家ですら、まだ出られないでいる。
他の仕事もツテも思いつかない。だから今は悩むよりは少しでも早く一人前になろうともがいてはいる。けれどあまりに現実が厳しいとき、たまにあの夢が恋しくなる。
たとえば今日のように。
──でも。
「行けないわ」
アリスはつぶやいた。
あの世界の「特別」でいるより、この世界の「普通」を選んだのは私だ。そのことを後悔はしていない。
「帰らなきゃ」と追いたてられた理由は、きっとひとつだけじゃない。
子どものような夢に逃げ込んで大事にされても、後には何も残りはしない。
自分の手で得たものだけが本当に自分のものなら、あの恋は私のものじゃなかった。
醒めるからこそ、あれほどまでに自分に優しかったのだと。きっとわかっていたのだ、あの夢の中ですら。
「行かないわ」
どんなに夢が優しくても、呼ぶ声が甘くても。
立ち止まれば、そこから先の私は空ろになってしまうから。
眠りに落ちる頃には、もう声は聞こえなかった。
そして、その夜巻き忘れられたアリスの時計は、以来元のようには動こうとはしなかった。