不意に沈黙が落ちた。
「ルネさん?」
答えはない。
ルネはアンジェリークの膝に頭を預けたまま眠ってしまったらしい。
先ほどまで話していた唇が軽く笑んだ形のまま、薄く開いている。
──綺麗。
少しつり気味のまぶたにつんと高い鼻。澄んだ肌とそれを縁取る金色の髪。
天使という名前を持つ自分よりもルネの方がよほど天使らしい。
目を覚ましているときはいたずらな言葉に翻弄されて、そんなことは忘れてしまっているけれど。
銀の大樹の下で過ごす昼下がりは、二人のお気に入りの時間だ。
草の波がさわさわと打ち寄せる木陰にいると、二人だけの島にいるような気分になる。
彼も同じように感じているのか、ここにいるときは恥ずかしくなるほど時間が甘い。
今日ももそんな時間を過ごしていたところだった。
少し寂しい気もするけれど、このまま寝かせておいてあげよう。
今日の彼はなんだか眠そうだったし、まだ時間もある。
それにアンジェリークには考えなければならないことがあった。
目の前を銀の輝きが通り過ぎる。
アンジェリークは絡めていた指をほどいて、ルネの髪から銀の落ち葉を取り上げた。
軽く息を吹きかけると葉の縁が熾のように強く光る
ふわりと新しい風に乗っていく落ち葉を見送って、アンジェリークは空を見上げた。
ここは聖都の中とは思えないほど暖かいが、それでも陽射しは柔らかい秋のそれに変わってきている。
ここでは冬も近い。朝晩は冷え込むし、日中でも氷の面はあまり緩まない。
──そう。もうすぐなのに。
アンジェリークはため息をついた。
「……どうしたの?」
「ルネさん! 起きてたんですか?」
「ボク、寝てた?」
ルネは驚いたように青い瞳を瞬かせた。
「ええ、少しだけ」
「そう……」
ごめん、とルネは眉をひそめた。
「それはそうと、どうしてため息なんかついていたの? まさかボクがキミをおいて眠っちゃったからじゃないよね?」
アンジェリークは逡巡した。
本当は言いたくないけれど、いっそ本人に聞いたほうが早いかもしれない。
「そんなことじゃないんですけど……」
「じゃあ、何?」
すい、と身を起こしたルネはアンジェリークに顔を寄せた。
瞳が近い。
ルネからは大聖堂のそれと似た、甘いようなすがすがしいような木の香りがした。
慌てて身を引こうとすれば、ドレスをしっかり押さえられて動けない。
「もしかしてボクに言えないこと?」
寂しい響きがほのかに声に混ざる。
アンジェリークは慌てて否定した。
「違います。ほんとにそんなことじゃないんです」
ルネは少し疑うような、物問いたげな表情のまま動かない。
「あの、ちょっとお聞きしていいですか?」
「いいよ。何が聞きたいの?」
「ルネさんは、何が欲しいですか?」
「ボクの欲しいもの?」
「だってもうすぐお誕生日でしょう?」
「誕生日?」
ルネは拍子抜けしたようにアンジェリークの言葉を繰り返した。
「何か素敵なプレゼントをしたいと思ったんですけど、何も思いつかなくて」
お菓子がいいかな、とも思ったけれど、手持ちのレシピでルネが口にしていないものはないし、かといって新しいレシピを試作する時間はとれそうにない。ウォードンにならきっと良い物があるに違いないけれど、昔のようにあてもなくウィンドウショッピングをするわけにもいかない。
「ルネさんは何か欲しいものはありますか?」
しばらくぼんやりと視線をさまよわせていたルネが、指先を唇にやって笑った。
「あるよ、欲しいもの」
「教えてください。プレゼントはそれにしてもいいでしょう?」
「もちろん。……嬉しいな、キミからもらえるなんて」
「そんなに欲しいものなんですか?」
「そうだよ、でも」
ルネは天使のような笑みを見せる。汚れのかけらも感じられない笑顔なのに、アンジェリークはなぜか嫌な予感がした。
「……内緒」
「え?」
アンジェリークはとまどった。
内緒というからには、もしかして教えてもらえないのだろうか?
ルネはうきうきした様子で続ける。
「欲しいものはあるし、それをキミからもらえたらボクはとぉっても嬉しいよ。……だから、あててみて?」
「あてる?」
「キミならわかるはずだよ。ボクの欲しいもの」
「そんな!」
「ダメ?」
とたんに瞳がくもった。
がっかりしたように、おおげさに肩まで落ちている。
「……考えて、みますね」
無理です、ダメですと言おうとした口が、勝手に答えていた。
「ありがとう! 楽しみに待ってるね」
ぱっと笑顔が戻ってくる。
アンジェリークは一瞬、ルネの背中にコウモリの羽が見えたような気がした。
── 聞かなければよかったわ。
アンジェリークは重い気分をもてあましながら、廊下をゆく。
夕課の済んだ聖都は、穏やかに夜を迎えようとしていた。
廊下の灯りに火を入れて回る老人と挨拶を交わす。
いつもなら燭台の優しい光を楽しむのだが、今はそんな余裕はない。
もう日もない。
なのに、答えがわからないうちは準備すらできない。
聞かなければ、自分なりに考えたプレゼントで済んだはず。
なんだか彼に思いっきり期待されているような気がする。
もしもあてることができなかったら、どんなに失望するだろう。
素直に答えをくれる人じゃないのは知っていたのに。
「どうしましょう……」
アンジェリークは今日何度目かのため息をついた。
「あ!」
廊下の遙か向こうに見えた人影に、アンジェリークは思わず声を上げた。
もしかしたら。
「マティアス様!」
小さく走り寄る。マティアスは静かに一礼した。
「陛下が走られずとも、お呼び頂ければ私の方から参りますのに……」
控えめにたしなめられる。
「ごめんなさい。つい……」
マティアスはいいえ、と微笑んだ。
「何かお急ぎのご用なのでしょう?」
「はい。……あの、マティアス様にお伺いしたいことがあるんです」
この人なら、何か教えてくれるかもしれない。
「私でお役に立てることなら……。しかしここでお話されてもかまわないのでしょうか?」
「ええ。ルネさんのことなんです」
「おや、ルネがまた何かしましたか?」
「いいえ、そうじゃないんですけれど……」
マティアスは柔和な表情のまま、アンジェリークの言葉の続きを待っている。
「ルネさんのお誕生日のことなんです」
「誕生日、ですか」
「ルネさんに何かお祝いを差し上げたいなって思ったんです。でもいいものが思いつかなくて。それでルネさん本人に聞いてみたんです」
「それで、ルネはなんと?」
「欲しいものはあるけど、秘密ですって。私にあてて欲しいって、そう」
「そうですか」
目を伏せ、しばし考える表情を見せた後、マティアスはあっさりと頷いた。
「そうですね、多分わかった、と思います」
「え?」
アンジェリークはぽかんと口を開けた。
あんなに悩んだのに。
まさかこんなに簡単に答えが出るとは思わなかった。
「教えてください、マティアス様!」
「いいえ。お教えしてしまっては公平ではありませんし……。もしわからなければ、陛下のお考えになったもので良いと思いますよ。お教えしたいのはやまやまですが、ルネは当てて欲しいと言ったのでしょう?」
軽く首を傾げるようにすると、氷色の髪がさらさらと流れる。
「陛下もお考えになれば、すぐにおわかりになると思いますよ」
ふっと見せた笑顔はどこかルネと似ていた。
「そんな……。そんなことおっしゃらないで、教えてください」
「では、少しお手伝いいたしましょうか」
そうですね、とマティアスは言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……彼は見かけによらないところがあると思いませんか?」
「見かけによらない?」
「ええ。とても真面目ですし、それに少し引っ込み思案なところもあるかもしれません」
「そうですね」
そう言われてみれば確かにそうだ。
言葉でこそ投げやりになったりもするし、二人でいるときはふざけてみたり甘えたりするけれど、ルネは本当はとても真面目だ。
でもそれがプレゼントとどう関係するのかアンジェリークにはわからなかった。
「マティアス様……」
助けを求めて見上げる。
「では、もうひとつだけ。三日ほど前、何かございませんでしたか?」
「三日前?」
何かあっただろうか?
アンジェリークは必死に三日前の記憶を辿った。
朝からはいつもどおりの祈りの時間だったし、午後は少し休んでからまた祈りに入ったはず。
でも、その時間のどこかでルネと何かあったはずで。
「あ」
「おわかりになったようですね」
マティアスは微笑んだ。
「ええ、ありがとうございます! ……それで、その件でマティアス様にお願いしたいことがあるんですけれど」
「私でお手伝いできることがあれば、何なりと」
……うるさい。
ルネはベッドの中で眉をしかめた。
さっきからずっとノックの音が聞こえている。
いったい、なんなのだろう。
夜中の用件は、よほど重要な事柄を除いてドア越しに伝えられるはずだし、火急の用件ならばノックだけあって何も声がかからないはずはない。
ルネは音を追い出すようにシーツを頭の上まで引き上げた。
とたんにノックの音がまた少し大きくなる。
「うるさい!」
思わず声に出した瞬間、ノックがやんだ。もしかして声を──地声を聞かれてしまったか、とひやりとしたとき
「ルネさん?」
控えめにかけられた声に、ルネは一気に覚醒した。
「アンジェリーク?」
答えるようにドアが開く。
隙間から、彼女の顔がのぞいている。
「……どうぞ。もう開いてるみたいだけど」
「ごめんなさい、早くに」
ナイトテーブルの時計に目をやる。まだ朝というには早すぎる時間だ。
彼女は細く開けたドアからするりと部屋に入ってきた。
「おはようございます」
「もう朝?」
「そうです。だから起きてください、ルネさん」
手に抱えていたものを椅子に置いた彼女は軽い足取りで窓に向かう。
「今日はいいお天気になりそうじゃありませんか?」
「……まだ日も昇ってないのに?」
カーテンを開け放っても、まだ外には明けの気配もない。
「お星様がたくさんありますし、きっといいお天気になります」
ルネの発言を聞いていないかのように、アンジェリークは言う。
「そうかもしれないね」
観念したルネは身を起こした。
「で、どうしたの? こんな時間にそんな格好で」
アンジェリークは女王のドレスではなく、懐かしい衣装に身を包んでいた。
「だって、あのドレスじゃ少し動きづらくて」
「そう?」
「それより、ルネさんこそ早く起きて着替えてください」
アンジェリークはさっき持ち込んできた荷物を広げて、にっこり笑った。
「それ、ボクの?」
「そうですよ」
ごくあっさりとした白いシャツに、上着はいかにも軽そうな若草の色。アンジェリークはその他の何もかもを椅子の背にかけてから、その足元に秋の葉色の靴を揃えた。
「えっと」
「ディオンさんのお見立てですけれど、足りないものはないと思いますよ」
数え上げるように、衣装の束をチェックしたアンジェリークが満足そうに言った。
「だから早く」
「えっと」
状況が飲み込めない。
こんな未明に、こんな服を着る理由も。
アンジェリークは、話についていけないルネを気にする様子もなく続けた。
「早くしないとあちらに着くのが遅くなりますよ?」
「あちら? 着く?」
「ええ、今日はコズへ行くんですから」
「誰が?」
「ルネさんと私で、です」
「ボクとキミ?」
さっきから馬鹿みたいな返事しかしていないことに気づいて、ルネはひとつ大きく息をした。
「……キミ、そんなこと言ってたっけ?」
「言ってません」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「お誕生日のプレゼントなんですから、教えてしまったらつまらないでしょう? それに」
小さな手がルネの手を取った。
「もし言ったら、ルネさんは行けない理由を考えるでしょうし」
「……」
その通りなだけに、ルネには何も言えない。
「この間、コズからフルーツが届いたときに、行きたいなって言ってましたよね? でもルネさんはどこかにお誘いするたびに忙しいとか忙しいとか忙しいとか。だから」
「だって」
コズへ行きたいと言ったのは覚えている。確かに自分はそう言いはした。
でも、それは嬉しそうにコズでのできごとを話す彼女が少しうらやましくて、つい口にしただけのこと。
聖都を数日空けるくらい今の自分達には不可能ではないけれど、セレスティザムの外に出るのは少し心もとない。
「大丈夫ですよ」
ルネの逡巡を見透かしたように彼女は言った。
「帰りにオラージュにも寄るんですよ? もうお手紙も出してあるんです」
アンジェリークはルネの退路を断つようにたたみかける。
「準備も全部すんでます。今日と明日のお仕事もマティアス様と皆さんにお願いしておきましたし」
──それで、か。
道理でここ二三日、近しく自分に接する皆の態度に違和感を覚えたはずだ。
皆、知っていたのだ。知らなかったのは自分だけ。
──恥ずかしすぎる。
ベッドの上を転げまわりそうになる。
「あとは、ルネさんの準備だけですから」
ほら早く早く、と手をひかんばかりにせきたてられる。
もう諦めるしかなさそうだ。
はいはい、と床に足を下ろしながら、ルネは言った。
「悪いけど、外に出てくれる?」
「え?」
アンジェリークの目がびっくりしたように丸くなる。
「ルネさん、まさか……」
「キミがここにいたら着替えられないんだけど。それとも手伝ってくれるの?」
ちらりと見やると、彼女はぱあっと頬を染めて後じさった。
あたふたとドアに向かった彼女が扉の前で一度振り向いた。
「ルネさん。私、当てられましたか?」
「……うん。正解」
満面の笑みがドアの向こうに消えた。
「正解だよ、なんだって」
不意にあふれた幸福感に、涙が出そうになる。
本当は何でもよかった。
彼女がくれるなら。
意地悪をしたのは、ちょっとしたワガママのつもりだった。少し自分のことを考えてほしいと思っただけだったのに。
プレゼントはいつか見た夢。
彼女とアルカディアを旅するという夢。
「……ありがとう」
ルネはドアの向こうに呟いた。