部屋が遠い。
いつも昇っているはずの階段が長い。
「うわっ」
段の端に爪先がひっかかってバランスが崩れた。
壁に手をついて転ぶことだけはなんとか免れる。
ほぅとついた息が熱かった。
ベルナールは残りの段を壁に肩を預けるようにしながら上りきる。
最後の一杯が、脚に効いていた。
普段から頭がかすむほどには飲まないようにしてはいたし、今日も飲むために行ったのではなかった。
一杯か二杯のつきあいだけで帰るつもりだった。
酒場で小競り合いが始まり、出づらくなって一杯増えた。少し過ごしたか、と思って切り上げかけたときにロシュに会ったのだ。
どう考えても許容量を越えていた。
ドアを開ける。
よろよろとベッドに座って、ベストを脱いで椅子に投げる。ベストのポケットから、コインが数枚、床に転がり落ちた。
ベルナールは小声で悪態をついて床に膝を突いた。窓からの月明かりを頼りにコインを拾い集める。
もうベッドに戻れそうもない。
ベルナールはベッドを背もたれにして座り込んだ。
白い漆喰の壁に窓枠の影がくっきりと黒い。
──どうして。
この問いが酒場からずっとベルナールの頭を占領していた。
喜べなかった。
何よりも大切で、誰よりも愛している少女に再び会うことができる。それはほとんど奇跡にすら近い。
なのにあの瞬間、なぜか素直に喜ぶことができなかった。
会いたくないなどとは思わない。
もう一度会えるなら、と夢見たことがないとも言えない。
「ごめん」
思いが口をついて出た。
本当はわかっている。
自分が喜べなかった理由を。
諦めかけていた自分に気がついたからだ。
もう、アンジェリークに──少なくとも生きている間には──会えないと思ってしまっていたからだ。
なのにロシュの話で、彼らがけして彼女を諦めていないことを目の前に突きつけられた気がした。
自分が今こうしていることに後悔はない。
記者としての仕事には誇りを持っているし、少しは誰かの役に立つことができていると自負すらしている。
一日でも早くアルカディアが自力で幸せになれるよう、力を尽くしているつもりだ。
それは彼女を少しでも助けることになる、そしていつか二人の道が交わることにつながるかもしれないと思ってもいた。
が、それは嘘だ。
都合のいい、大人の嘘だった。
思えば、星の船の前で別れたときには、もうそんな風に考えてしまっていたのかもしれない。
追いかけたい、と思わなかったといえば嘘になる。
何もかも捨てて追いかけられれば、もしかしたら、と。
でもそれを可能にできると信じられるほどベルナールは若くなかった。
追いかけられるわけはない。だから追いかけなかった。
そしてどんなに焦がれようと、誰も彼女に届かないだろうことにどこか安心すらしていた。
コインが手の中で温まっている。
手を開いたベルナールは、酔いに霞む目をコインに向けた。
鋳造されてそんなに日はたたないだろうに、銀貨の表面にはうっすらと傷がついている。
傷を癒すように指先で銀貨を撫でる。
「アンジェ」
そこには愛しい少女がいる。
あの危機が去った後に発行された銀貨にはアンジェリークの横顔が浮き彫りされていた。
せめて似ていなければよかった。
豊かな髪と大きな瞳。少し幼さを残した頬。
「アンジェ……」
本物には及びもつかないが、それでもその姿はまごうことなく彼女のものだった。
「君は……君は、こんな僕でも待っていてくれるかい?」
手の中の少女を強く握りしめ、ベルナールはささやいた。