どこかの部屋のドアが開いて、閉まった。
重い足音が傍若無人にエレンフリートの部屋の前を通り過ぎ、遠ざかっていく。
うるさいなと眉をしかめて初めて、エレンフリートは自分がいつの間にか耳をすませてしまっていたことに気がついた。
メガネのずれを直しながら壁の時計を仰ぐ。
先ほど時計を見たときからほとんど針は動いていない。
正午を少し回ったところだ。
──遅い。
いつもなら、もうとっくに来ているはずなのに。
机の上に視線を戻す。先ほどまで書き込んでいたメモの最後は自分でも書いた覚えのない謎の曲線で埋まっていた。
「ああ、もう」
その線を描いた意味を思い出そうとしばし頭をひねってみたものの、何も思い出せそうにない。
諦めたエレンフリートは椅子から立ち上がった。
机の引き出しを開けて、入っているはずのサプリメントの小瓶を取り出し──しかし元通りしまいこむ。
なんだか、今日はそんなもので食事をすませる気分になれなかった。
久しぶりに食堂にでも行ったほうがいいかもしれない。
制服のポケットに財布が入っていることを確かめてから、エレンフリートは部屋を出ようとした。
「きゃっ」
ドアを勢いよく外に向けて開けたとたん、向こう側で小さな悲鳴があがった。
「……いったい、あなたは何をしているんですか」
息を呑んで、それでもなんとか冷静を保って尋ねる。
「ドアをノックしようと思ったら、先に開いちゃったので……ちょっとびっくりしちゃって」
廊下にぺたりと座り込んだアンジェリークは、大事そうに抱えていたおおぶりのバスケットを差し出し、いつものように笑った。
「エレンフリートさん、お昼をご一緒しませんか?」
「しかたありませんね」
エレンフリートもいつものように答える。
「おつきあいしてさしあげますよ。──で、あなたはいつまでそんなところに座っているおつもりですか?」
「遅くなってしまってごめんなさい」
持ってきたものを接客用のテーブルにセッティングしながら、アンジェリークは謝った。
「今日は寒いでしょう? 温かいものがいいかしらって、ここのキッチンを少しお借りしていたんです。でも勝手がわからなくて」
「謝ることはありませんよ。あなたを待ってなどいませんでしたから」
「そうだったんですか?」
あっさり聞き返されて、ソファの座り心地が急に悪くなる。
「ええ」
「そうですか」
そう言ったきり、アンジェリークは黙々とバスケットの中身を取り出している。
「えと、その。待っていなかったというのは、食事をあてにしていなかったという意味で……。べ、別にあなたが来なくてもよかったと言っているわけでは……ありませんから」
途中で自分が支離滅裂なことを口にしていることに気がついた。頬が熱い。
自分は何を言っているのだろう。
沈黙に耐え切れなくて、つい口が滑ってしまった。
語尾が少し震えてしまったのには気づかれただろうか?
「よかった」
スプーンをランチョンマットの上に並べる彼女の横顔がほころぶ。
エレンフリートはソファの肘掛に肘をついてこめかみを押さえた。
最近は彼女も自分の憎まれ口に慣れてしまったらしい。以前のように困った風に黙ってしまったり、悲しそうな顔を見せることもなくなっている。
そうされるとエレンフリートはますます何を言っていいのかわからなくなる。
──これじゃまるで子どもあつかいじゃないか。
こうやって彼女と昼食をともにするのも、もう何度目になるだろう。
かいがいしく動くアンジェリークをこっそり見つめながら思った。
アンジェリークは、年が変わってすぐの頃からレインと一緒にこの研究所を訪れていた。
エレボスが去ったアルカディアには平和が戻っていた。幸いなことに財団はなんとか存続することができ、アーティファクトの研究は続けられていた。ただ、以前よりも規模は小さくならざるを得ず、兵器類の開発研究は凍結廃棄されてしまった。
現に今、エレンフリートが取り組んでいるのも兵器の研究ではなく、ジンクスの設計を元にした労働補助用のアーティファクトの開発だ。
財団がそう方向転換してしばらくたったある日、レインがここに現れた。財団に戻る気はあいかわらずないらしいが、兄弟の間にあったわだかまりはどうやら消えてしまったらしい。
それからは、何か研究で必要なものがあれば、レインはここに来るようになった。彼女はそんなレインにいつもついてきては、なんだかんだとエレンフリートに会いに来る。
そんな気がしているだけかもしれないけれど、とエレンフリートは内心でひとりごちた。
だが、こうやって昼食を一緒にするのは、今回の訪問が始めてだ。
きっかけは、サプリメントを牛乳で流し込んで昼食がわりにしているところを見つかったことだと思う。
必要な栄養素はサプリメントで補えるはずだし、牛乳は好きで飲んでいる、と何度も説明したが、アンジェリークは何か理解できないものを見る目でエレンフリートを見て、そんな食事をしてはいけません、と断固として言った。
そして、アンジェリークは次の日からエレンフリートの昼食を宿で作って持参するようになった。
初めの三日は食べなかった。
一日目は分量があきらかに多かった。
これは多分、背ばかり高い陽だまり邸の住人基準で作られたからだろう。だから、それを伝えてつき返した。
二日目は自分用に丁寧に包まれたランチボックスがなんだか気恥ずかしくて、そんなことはしなくていいと言って返した。
そして三日目、アンジェリークは自分との昼食につきあってほしい、と二人分の昼食を持ち込んできた。
でも、エレンフリートはそれにもほとんど手をつけなかった。
「お待たせしました」
アンジェリークがこちらを向く。
「エレンフリートさん、どうぞ」
「あ、はい」
テーブルの上には、すっかりランチの準備が整っていた。
具の入った小ぶりのオムレツや詰め物をしたプチトマトなど、色とりどりの料理が小さな皿に彩りよく盛られていた。
エレンフリートには料理のことはわからないが、、研究所の食堂で食べる料理よりもアンジェリークの料理の方が少し冷めてはいても美味しい、と思う。
エレンフリートはスプーンのそえられたカップに目を止めた。
「スープもですか?」
「ええ。さっき言った温かいものってこれなんです。ひっくりかえしてたら、大変でしたね」
「本当にね」
白くてとろりとしたスープだ。ひとさじすくって、湯気の香りをかいでみれば、ミルクと他の何かのおいしい匂いがした。見た目はどこも変わったところのないポタージュだが、入っているのはコーンでもジャガイモでもないような気がする。
「これは何が入っているのですか?」
「それは、召し上がってからのお楽しみです」
見つめられながら、おそるおそるスプーンを口に運ぶ。
スープは一瞬舌の上に止まり、すぐになめらかに喉を落ちていく。
「いかがですか?」
ポタージュなのに少し軽く、そしてどこかほのかに甘みがある。
「何か、甘いものが入っていますか?」
アンジェリークは不思議そうに小首を傾げた。
「甘いものですか? いいえ?」
「あ、でも、まずくはありませんよ。……多分」
「よかった」
アンジェリークは微笑んで、自分もスプーンを手にした。
「これはね、カリフラワーのポタージュなんですよ」
「カリフラワー、ですか」
意外な答えに驚いた。
「はい」
「エレンフリートさんの言う甘さって、きっとカリフラワーからだと思うんですけど」
もう一度、今度はもっと味わって食べてみる。さっき感じたほんのりとした甘さが口の中に広がるが、あのつぶつぶした花野菜の気配は感じない。
おいしい、と思った。
「食べられそうですか?」
アンジェリークが心配そうにスプーンを置く。
「馬鹿にしないでください。カリフラワーくらい、普通に食べられますよ」
そう言いながら、エレンフリートはスープのカップをすぐに空にした。
「もしかして、これにも何か」
一口大のハンバーグを半分にしながら尋ねる。
「ええ。少しお野菜を混ぜてます。それは以前にもおいしいっておっしゃっていたでしょう?」
「おいしいといった覚えはありません。食べられる、と言っただけです」
「そうでしたっけ?」
アンジェリークはこともなげに笑って、やっとスープを食べ終えた。
「でも不思議ですね。ニンジンだけは何も言わずに召し上がるんですから」
「不思議なことではありませんよ。ただ」
「ただ?」
「いえ、なんでもありません」
エレンフリートはオムレツにフォークをぐさりと突き刺した。
まさか、昔レインに「もしかして、エレンはニンジン嫌いなのか?」と聞かれて悔しかったからだとはとても言えなかった。
会話に困ったエレンフリートは食事に集中することにした。
エレンフリートは野菜が苦手だ。
偏食は良くない、と自分でも思ってはいるが、なかなか克服できないでいた。
幼い頃から野菜は嫌いだった。
こんな風に料理したものをいつか食べた気もする。
昔はそれなりに育児にも熱心だった母が作ってくれたのだろう。
だが両親の仲が壊れ始めてからは、そんな料理を食べた記憶はない。食べるべき時間に子どもの食事が出ていないことはなかったが、家族の食卓はしばしば両親のいさかいの場になり、そんなところで食事をすることは苦痛でしかなく、両親も同様だったようで、いつしか皆ばらばらに食事を取るようになっていた。
野菜が嫌なら手をつけなければそれですんだ。
その後も野菜嫌いをなおす機会はもてなかった。学校ではいつも一人で食事を摂っていたし、財団に来てからは常に研究に追われ、それこそ食べることなんてどうでもよかった。
体調を崩さないように栄養のバランスを考慮して食べる。そうしないと研究に支障をきたす、その程度のことしか考えていなかった。
食事なんて、どうでもよかった。
こうして、ふたりで食事をするようになるまでは。
「もうおすみですか?」
「あ、ええ」
気がつけば目の前の皿はすっかり空になっていた。
ごちそうさまでした、と言えば、おそまつさまでした、とアンジェリークは満足げに笑った。
テーブルの上を片付けるアンジェリークを手伝う。
「あの、エレンフリートさん」
「なんでしょうか?」
「おなかにまだ余裕はありますか?」
「はい?」
もう入らないほどではないけれど、まだ何かあるのだろうか。
「大丈夫だとは思いますが……」
そう答えた次の瞬間、テーブルの上には魔法のように白い紙箱が現れた。
「今日はケーキも焼いてきたんです」
ほら、と彼女がふたを持ち上げてみせる。中には小さなホールケーキが入っていた。クリームでデコレーションされた表面はこれまた小さなマカロンや銀色のアラザンで可愛らしく飾られている。
「これにはお野菜は入れてませんから」
エレンフリートが箱をのぞきこんでいると、アンジェリークはからかうように言った。
「どうでしょうね」
そう返したが、エレンフリートは甘いものが嫌いではない。むしろ好きなほうだ。頑張って、というと嘘になるがともかく苦手な野菜を食べたのだから、ケーキくらい食べてもいいはずだ。
だが、次にアンジェリークがいそいそと取り出したのはナイフではなく、カラフルな細いろうそくだった。
「ケーキが小さいので全部刺したらハリネズミみたいになっちゃいますから……」
言いながら、ピンクを選んで三本だけケーキに立てる。
「どうなさったんですか?」
あっけにとられて見ていたエレンフリートにアンジェリークがけげんな顔をした。
「あなたはいつもこうやってケーキにろうそくを立てるんですか?」
「いいえ。いつもは普通にカットしますけれど……でも今日はお祝いですから」
「お祝い?」
「だって今日はエレンフリートさんのお誕生日ですよね?」
「誕生日?」
忘れていた。
ここ数年、誕生日など祝ってもらったことなどなかった。
「おめでとうございます」
「ありがとう、ございます」
少し声がかすれた。
ろうそくに灯がともされる。
「願いごとをしてから吹き消してくださいね」
エレンフリートは目をつむる。
──いつまでも、あなたとこうしていられますように。
願いを、吹き消す息にそっと託しながら。