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ひざまくら


 北の街の空は、薄青く澄んでいた。
 聖地を囲む石壁の上に吹く風も、今日は穏やかに柔らかい。昨日までの荒れ模様が嘘のようだ。街壁の上端をぐるりと巡る回廊に、今は人の気配もない。石造りのベンチに座ってあたりを見回す。地面から雪こそ消えてはいないが、こうやって二人で身を寄せ合っていれば、寒さもさほどには感じなかった。



 きっと、今日帰ってきた彼女もそう思っているのだろう。今回の視察で訪れた街のこと、出会った人のこと、思いつくままに話し続けるアンジェリークの声に曇りはない。話の内容はともかくとして、聞いているだけでも微笑みたくなるような、いつもの声だ。
 けれど、適当にあいづちを打つうちに、まぶたがじわじわと重くなってくる。先ほどの儀式で口にした蜂蜜酒の酔いが、今頃になって気だるく身体を巡りはじめたらしい。
 抗わず目を閉じた。
 そのまま、甘い声の抑揚を追っているうちに、それも次第に遠くなっていく。



 小さな揺れに気づいて、ゆっくりと目を開けた。空が稜線に接するあたりに、濃い青がにじみはじめている。
 すっかり眠り込んでしまっていたらしい。慌てて身体を起こそうとして初めて、自分がどこで眠っていたかに気づいて赤面した。側頭部に当たる柔らかい感触は、アンジェリークの……腿?
 ほんの少し冷えてはいるけれど、体温と甘い香りに包まれてたまらなく心地良い。手に触れるのは、どうやらさっきまでアンジェリークが羽織っていたショールのようだ。彼女がかけてくれたのだろう。では、彼女は?
 仰向けに身をよじる。優しい恋人は、石の壁に片肘を預け、壁に寄り添うようにして目を閉じていた。自分に重みをかけぬためだろうか。その配慮は嬉しいけれど、少し寂しくもあった。背後から夕焼けの光を浴びて、髪がちらちらと光っている。頬から顎にかけての曲線が以前よりいくらかほっそりと削げ、目の下の肌がかすかに淀んでいる。
 話をしている最中はそんな風には見えなかった。待っていた自分よりも、旅から帰ってきたばかりの彼女の方が疲れているだろうことに、どうして気が回らなかったのだろう。
 内心の後悔を振り払うようにして、そっと手を伸ばす。指先に触れた白い頬は、案の定ひんやりと冷たい。
 軽くつねると、アンジェリークの瞼がひく、と軽く震えた。かすかに開いた目は、幾度かのまばたきの後、驚いたように大きく見開かれる。
「ルネさん!」
 おはよう、と声をかけると、真っ赤になったアンジェリークがぷい、と顔をそむけた。
「見てるなんて……ひどいです」
「ボクの寝顔は見てたくせに?」
 恥ずかしがるのが可笑しかった。人の話の途中で眠り込んでしまった上、膝枕までしてもらっていた自分の方がよっぽど恥ずかしいと思うのだが。


 起き上がり、いつまでもこちらを向こうとしないアンジェリークの肩にショールを巻く。腕の中で彼女の体が暖かさに緩んだ。こちらもすっかり冷えてしまっている手を取る。
「いけない女王様。風邪でもお召しになったらどうなさるおつもりなんですか?」
「眠るつもりじゃ、なかったし……」
 小さな声で反論する。
「ボクをこれ以上心配させたいの? 欲張りなんだね、キミは」
 抗議するようにこちらを向いたアンジェリークの口から出たのは、思いがけない言葉だった。
「……ごめんなさい」
「え?」
「退屈だったんでしょう? 私ばかり話してましたし」
 眠ってしまった自分を責めないどころか、謝られてしまった。遠慮なのか何なのかはわからないが、他人行儀な隔たりを作ろうとすることに小さく苛立った。
「二人でいるときは、『さん』はいらないって言ったよね?」
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃなくて」
 軽く睨んで、つないだままの手にぎゅっと力を込めた。アンジェリークが観念したように口を開く。「ルネ」
「ん?」
「ルネはどうだったの?」
「別に? 何もかわりはなかったし、いつもどおりだよ」
 その答えが、彼女の問いに含まれた気遣いを無にするものだとはわかっていた。けれど、名前で呼ぶことだけを求めているわけではないことを理解しているはずなのに、こういうことを言ってしまう彼女がまどろこしい。
「キミは? キミは楽しかったんだろう?」
「ルネ?」
「ボクがいなくても、ね」
「そんなこと!」
 大きくかぶりを振る。
 困らせているという自覚はあった。それでも、どうしてもやめられなかった。
 純粋すぎる恋人は、こんなとき少しもどかしい。自分たちの時間は限られているというのに。
 そのまま俯き、黙り込んでしまったアンジェリークの肩を抱き寄せた。一瞬の抵抗の後、もたれかかってきた細い身体を抱いて、耳もとで囁いた。
「ごめんね。困らせちゃった?」
「……私こそ」
 ああもうそうじゃなくて、と彼女の律儀さに内心で肩をすくめる。言葉だけではどこまで行っても平行線になるだけのようだ。
「ねえ」
 膝の上に彼女を柔らかく引き倒す。さらさらとこぼれ落ちそうになる髪をそっとすくい上げた。
「ルネったら!」
 柔らかい重みがすぐに離れようとするのを押しとどめる。
「キミも、疲れてるんだろう?」
「そんなこと」
 指先で軽く唇を押さえる。これ以上そういうことは言わせない。
「もっと甘えて?」
「だって」
 もう一度、今度はやや強く指を押しつけた。
「だって、じゃなくて。そんなに頼りない?」
 困惑したように揺れる瞳を覗き込み、唇から離した指でゆっくりと頬を撫でた。何度も繰り返すうち、頬に赤みがさしてくる。
「……寂しい」
 言ってしまってから、恥ずかしさに自分の頬も上気するのがわかった。
「ルネ」
 素直に甘くなった声。
「何?」
「今度は、一緒に来てくれる?」
 ルネと行きたいの、とはにかみながらねだられ、言葉が喉に詰まる。
「……喜んで」
 現金にも、急に満たされた胸に彼女を抱きしめ、その答えを直接唇に落とした。
 そして、せっかくのおねだりを撤回されないうちに、そのまま口をふさぐことに決めた。

(end)
update : 06.08.01
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