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one step



 あ、と思ったときには遅かった。
 一歩踏み出した足が、止める間もなく石の床につく。威儀を正して静まりかえった部屋に、かつん、と硬い音が響いた。控えめな視線がいっせいに自分に集まる。些細なこととはいえ息が詰まり、胸に焦燥のざわめきが満ちた。
 ぐ、と奥歯を食いしばる。あふれ出そうなパニックを飲み込んで、ルネは二歩目を踏み出した。顔を隠していられることが心底ありがたい。
 大広間の向こう、大きく開け放たれた入り口の近くにアンジェリークの姿が見える。そこを目指して、いつもよりややゆっくりと歩を進める。これでなんとかつじつまは合うだろう。

 本来なら、聖都に女王が戻られるときには、自分たち教団の者や騎士団が門前で出迎えねばならないところだ。が、派手らしいことを嫌うアンジェリークは、いつもここまでは微行に似た気軽さで入ってくる。今ここで行うことは、それでも一応は型どおりのをしなくては、という折衷案にすぎない。
 だからといって気を抜いて良いわけはないのに。
 仮面の下で唇を噛む。いくら愛しい人の顔を久々に見たからといって、見とれて自分をコントロールできなくなるなんて。
 ステンドグラスから落ちる、ぼんやりと色のついた光を踏んで進む。もう半分は過ぎた。
 仮面のせいで狭まった視界に、少女の姿が徐々に大きくなる。
 手を伸ばせば届きそうな距離で足を止めた。頭ひとつ高い儀仗兵に付き添われていたときは小さく見えたが、こうやって近くで見ると目線はほとんど自分と同じだ。微笑む顔に、気づかうような励ますような色が見えるのは自分の気のせいではないだろう。
 一度跪き、慣れた口上を申し上げる。言葉こそすらすらと出たものの、声を作っているとはいえ、自分の声ではないかのように耳に遠い。
 立ち上がって手を伸べれば、白い手がためらうことなく預けられた。手袋ごしの乾いた温かさに、自分の手から血の気がひいたまま戻っていないことを知った。かすかに震えさえ残っている。
 そこに触れる指先に優しく、ごく軽く力が込められた。そこから流れ込むものを受け止めるように、心もち手のひらを上げる。すっと震えが抜けた。



 そろそろ帰らなくては。
 夜も更けた。たわいのない話もとっくの昔に尽きた。そして明日は明日の仕事がある。お互い休んだほうがいい。
 頭ではそう思っているのに、なかなか立ち上がれない。
 ぐったりと疲れていた。
 ほぐれたとはいえ、初めに狂ってしまったリズムはなかなか戻らなかった。あれからの一連の動作が一見つつがなく済まされたのは、自分の類まれなる記憶力と体に染みついた訓練の成果に他ならない。
 頭の芯が重いのは、昨夜眠られずにいたせいだ。眠ろうとしてもただ時間を失うばかりで、気がつけばもう起きなければならない時間になっていた。
 膝を抱えるようにして座っていたアンジェリークが黙ったまま、自分の肩にことん、と頭を預けてきた。彼女も疲れているのだろう。
 夜に入って急に冷えた。部屋の暖炉には火が入り、真っ赤に熾った石炭がゆらゆらと熱を放射している。
 このままだと、ここで眠ってしまいそうだ。
 やっと思い切って、空になったココアのカップをテーブルに置いた。ポットを持ち上げて物問いたげな視線を向けたアンジェリークに首を振る。
 そのまま腰を上げようとしたとき、あ、そうだ、と小さな声がした。
「どうしたの?」
 問えば、何やら悪戯っぽい顔で笑う。
「なあに? 笑ってないで教えてよ」
「ううん、なんでもありません」
「キミから言いだしたのにナイショにするの? ずるいな」
 拗ねてみせれば、しばらく逡巡してからアンジェリークが口を開いた。
「あのね。帰ってきたときのこと」
「ああ、あれ?」
 話題に上らなくてほっとしていたというのに。思わず嫌そうな顔をしてしまったらしい。
「ごめんなさい、嫌でした?」
「ううん、もう平気だよ」
 自分に向けられたちらちらと楽しそうな騎士たちの視線を思い出す。
「あーあ、明日からしばらくはいろいろ言われるんだろうな」
「そうですね」
 大丈夫、私も言われるんですから、と慰めにもならない慰め方をされる。
「まあいいよ。すぐに忘れるって。で、何?」
「……ルネさんがまっさきに来てくれたでしょう?」
 その通りなのだけれど、そんな言われ方をすると身も蓋もなく恥ずかしい。
「……恥ずかしかったよ」
「でも、ありがとう」
「え……?」
「嬉しかった、です」
 俯いたアンジェリークの顔が赤い。
 自分の頬にも血が上ってくる。逃げ出したい。ああもう、どうしてそんなことを。そんな顔をして。
 これ以上、顔を見られたくなくて抱き寄せる。 
 びっくりしたように離れようとする彼女を逃がさないように、腕に力を込めた。
「ルネさん」
「見ないで」
 熱い頬を、アンジェリークの頬にすりよせる。
「恥ずかしいから」
 耳もとでくすくす、と小さく笑う声がした。ぎゅ、っと抱きしめてみても我慢できないらしく、抑えた笑いで体が震えている。
 なんとか笑いやめさせようとしてみたが、逆に笑いがじわじわと伝染しだす。
 とうとうアンジェリークの肩口に額を預けて、あふれてくる笑いに身をゆだねた。
 
 二人でさんざん笑った後で、アンジェリークが涙をふきながら言った。
「いつもあんな風にしてみたらどうかしら?」
 そうすれば、みんないつか慣れてしまうんじゃない?
 笑いの余韻で目をきらきら輝かせ、ほんのり赤い顔をしているくせに、すましてそんなことを言う。
 
 僕は、君が好きだ。
 こんなにバカになってしまうくらい、好きだ。
 けれど、正直何度もあんな目に合いたくはない。だから。
「冗談!」
 恐ろしい予言をつむぐ彼女の鼻を軽くつまんでから、笑いにほころんだままの唇にキスをした。

(了)
update : 2006.11.12
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