1
強く引かれる感触の後、ぱちり、と何かが切り替わるように目が覚めた。
体が軽い。
精神を圧迫してくるエレボスの力もあまり強くは感じられない。どうやら今日は、何にも邪魔されずに眠ることができたようだ。
常にない爽快感を覚えながら、ニクスはゆっくりと目を開けた。カーテン越しの陽射しが部屋をあたたかい色に染めていた。寝室の空気は肌寒いが、それがほんのりあたたまった寝具の心地よさをさらに際立たせてくれている。
まだ朝も早い。朝食前に花壇の様子でも見て来ようか。
だが、そんな安楽な考えも次の瞬間にかき消えた。
ニクスは慌てて、しかしできるだけ静かに身を起こした。
「アンジェリーク?」
見間違えるはずもない。
女王の卵がすやすやと眠っている。──ニクスの隣で。
彼は信じられない思いで頭を振った。
なぜアンジェリークが自分のベッドにいるのだろう。
ニクスは呆然としながら、そっとベッドから起きだした。
こんなところを誰かに見られでもすれば、彼女の名誉に傷がつく。そんなことをさせるつもりはないが、ともかくこんなふうに一緒にベッドに入っていては、どんな言いわけもしにくいだろう。
だが、急いで身じまいをしようとした時、ニクスは再び困惑するはめになった。
ここは自分の部屋ではない。
かといってアンジェリークの部屋でもない。
この部屋は、今は使われていない、陽だまり邸の主寝室だった。
アンジェリークとレインがオーブハンターとして陽だまり邸に来ることが決まった時に、ニクスはそれまで使っていたこの部屋を引き払い、二人と同じように客用寝室のひとつに移っていた。屋敷の主だとはいえ、ひとりで一番広い部屋を使う気はしなかった。ンジェリークもレインも客ではなく、仲間としてここに来てくれているのだから。
それ以来、この主寝室は使われることのないまま今に至っているはずだ。
ニクスは、用意されている衣服を手に取りながら、部屋の中を見回した。
おかしい、とニクスは思った。
この部屋からは、しばらく使っていなかったような雰囲気が感じとれない。空気も淀んでおらず、部屋の調度も綺麗に手入れされ、窓際には花の鉢植えまで置かれている。
使用人は通いの者しかいない陽だまり邸では、使われない部屋にここまで手を入れる余裕はない。ここも、たまに風を通すほかは、締め切りになっているはずだ。
自分がそれを指図しない限りは。
だがニクスには、こんなことを命じた覚えはまったくなかった。
覚えがないといえば、昨夜、ここでアンジェリークとともに眠ってしまったらしいこともそうだ。
ニクスは、手早く衣服を身につけながら昨夜のことを思い出そうとしてみた。
しかし、何があったのか、まったく思い出せない。
最後の記憶は、昨日の午後、サルーンに集まった皆と依頼について話していた時のことだ。空になったカップに気づいた彼女がお代わりを注いでくれた。まだその時の紅茶の香りが残っているような気がする。
それから?
ニクスはいらいらとカフスボタンを手の中で転がした。
──それから私は、何をした?
何も思い出せない。
普段の生活にそって考えれば、自分たちはその後に夕食を取ったはずだが、それも覚えていない。
もしや、自分はあの話し合いの最中に発作を起こしでもしたのだろうか。だから彼女がこうしてついていてくれたのか。
いや、とニクスはその可能性を否定した。
エレボスと自身を巡って争った後にしては、いつもその後に感じているような消耗した感じがない。かえって、ふだんの目覚めよりもさわやかに感じられるほどだ。
しかも、とニクスはまだ幸いにもまだ目を覚まさないアンジェリークに視線を向けた。上掛けの襟元からのぞいているのは、彼女がいつも着ている服ではなく、寝間着のようだ。看病していてくれたと考えれば彼女が寝間着姿でしっかり眠っているのはおかしい。
それとも、自分は彼女を傷つけるようなことをしたのだろうか?
一瞬脳裏に浮かんだ光景にニクスはぞっとしたが、それはさらにありえない話だ、と思い直す。
ニクスは改めて、安らかに眠っているアンジェリークを見下ろした。寝具からのぞく白いレースの襟も、長い髪にも乱れたところはない。
仮に自分が自分を失っていたとしても、他の三人がいれば、彼女に害をなすことを許すはずはない。
ニクスはさらに悪いほうへ走ろうとする想像を振り払った。
ここで考え込んでいてもしかたがない。
今すぐには昨夜の記憶を思い出せないようだ。
彼女を起こして聞いてみるのが一番手っ取りばやい解決策だが、もしなんらかの事件の結果、こういうことになっているならば、それもあまり良くない行動だろう。
アンジェリークと合意の上で一緒に眠ったというのなら置いていくのは失礼になるが、ともかく今はいったんここを出て、何が起きたのか確かめてみたほうがいいだろう。
一応の身じまいを終えたニクスは、静かに部屋を出た。
「おはようございます」
廊下の向こうからやってきた使用人が落ち着いてはいるがほがらかに朝のあいさつを口にした。
「おはよう。今日は早いですね」
リースから通うのが基本の使用人たちは、朝食の支度をする者などを除いて朝八時が出勤時間だ。しかし、今はまだその時間になってはいない。
だが、メイド頭の女性はその顔にうっすらと疑問の色を浮かべた。
「ニクス様もお早いお目覚めですね。朝食はいかがいたしましょう」
「いつもの時間でけっこうです」
「はい」
「ジェイドは?」
あまり眠る必要のない彼は、この時間ならたいてい起きているはずだ。
「まだお着きではありません。準備をしなくてはならない、とおっしゃっていらしたので今日明日にもいらっしゃると思いますが……。お部屋は元のお部屋を、と」
「そうですか、ありがとう」
そう返して彼女と別れた後、ニクスの頭の中はさらに混乱していた。
まだ着いていない、ということは、ジェイドはどこか……陽だまり邸以外の場所に出向いていると考えていいだろう。
しかし昨日の午後、彼は自分たちと一緒にサルーンにいたはずだし、急な依頼は何もなかったはずだ。
自分が覚えていない時間に、大事件でも起こったのだろうか。
──それとも。
ニクスは自分の部屋に向かう足をさらに速める。
自分の部屋に戻った時、懸念は確信に変わった。
ニクスの部屋は、まるでしばらく留守にしたかのように空気が澱み、どことなく湿った感じもする。家具も壁際に寄せられ、白い布でほこりよけの覆いがされている。
どうやらニクスが覚えていないのは、一夜のできごとだけではないらしい。
ドアを閉めたニクスはきびすを返してサルーンに向かった。サルーンにいればレインやヒュウガ、そうでなくても誰か使用人に話を聞けるはずだ。
しかし、ニクスの焦る気持ちをあざ笑うように、サルーンには誰もいなかった。
時間も時間だ。誰もいなくてもしかたのないことだ。ニクスは椅子に腰を下ろし、誰かが来てくれるまで待つことに決めた。
少し行儀悪く、椅子の背に体重を預けたニクスは目を閉じ、先ほどと同じようになんとか記憶の空白を埋めようとしてみた。が、空白の一歩手前までは鮮やかに思い出せるくせに、その後のことはやはりどうしても思い出せそうにない。
ニクスはあきらめのため息をつき、サルーンをぼんやりと眺めた。
ふと違和感を覚えたのは、サルーンに置かれている小さなカレンダーに目をやったときだった。月も日も今日を示しているのに、何かがおかしい。
ニクスは立ち上がり、カレンダーを手に取った。
月は正しく八月になっている。
だが、数字の並びがおかしい、というよりも。
曜日がずれている?
気づいたニクスはカレンダーをめくり、月をさかのぼってみた。
規則正しくずれている。
しかし、これは去年のものではないようだ。
「まさか……」
自分は一年近く眠っていたというのか。
ニクスはよろめくようにテーブルに手をついた。その手が震えているのが、自分でもわかる。恐怖のあまり、めまいがする。
──アルカディアは今、どうなっている?
恐ろしい。
アンジェリークがここにいるのだから、まだ最悪の事態には至っていないはずだ。そう思いはしても、どうしても想像は良くないほうへ、良くないほうへと向かってしまう。
タナトスは? それからエレボスは?
奔流のようなニクスの混乱を止めたのは、天使の声だった。
「おはようございます」
見上げた視線の先にはアンジェリークがいた。
「大丈夫ですか? ニクスさん」
「おはようございます。ええ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
救われたような気分で、ニクスはなんとか微笑んでみせた。
「どうぞ」
アンジェリークの声に、ニクスは我に返った。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
声のしたほうを見れば、アンジェリークがにこにことカップを差し出している。
「ありがとうございます」
礼を言って受け取ると、薄いカップからは、花のような香りが馥郁と立ち上ってきた。
「良い香りですね」
「そうだね。本当に」
ジェイドにあいづちをうたれ、ニクスは椅子から飛び上がりそうに驚いた。
なぜ彼がここにいるのだろう。
ジェイドが数日のうちに来ることはわかっていたが、もう着いていたとは気づかなかったし、出迎えもした覚えもない。
だが、その混乱を口には出さず、ニクスは黙ったまま香り高い紅茶に口をつけた。
「ヒュウガはレインを呼んで来るって言ってたけど…」
ジェイドが階段の踊り場を見上げる。
「私も行ってきましょうか?」
「いいえ、もう少し待ってみましょう。……お茶が冷めてしまう前には下りてくるでしょうし」
アンジェリークがきちんと座り直すのを見ながら、ニクスはなんとか現状を把握しようとした。
ここは陽だまり邸のサルーンだ。目の前にはアンジェリーク、背後に立つのはジェイド、後の二人も屋敷の中にいるらしい。
近々皆で集まる予定だったとはいえ、昨夜はまだ誰も陽だまり邸に到着していなかったはずだった。
しかも、ニクスには昨夜彼女と床に入ったときから今まで何をしていたかの記憶がない。
窓から射す光と、こっそり目をやった時計の針から考えれば、今はもう午後も遅い時間のようだ。
「それにしても、タナトスが大きな町にもよく現れるようになったね」
「銀樹騎士さんたちがいても撃退しきれないなんて」
アンジェリークも顔を曇らせる。
その言葉に、ニクスはどきりとした。
どっと冷や汗が湧いた。
まさか、タナトスが復活したのか。
そんなはずはない。
ニクスの中に、エレボスはもういないのだから。
「メーターの幸福度は少しずつ上がっているのに……」
アンジェリークの表情はさらに翳る。
ニクスは何も言えないまま、彼女から目をそらした。いつもなら、ここで慰めなり励ましなりの言葉をかけることができただろうが、今はそんな余裕はありそうもない。
いったい、自分が眠っている間にアルカディアに何が起こったのだろう。
答えを求めてさまよわせた視線が、アンジェリークの白い手で止まった。
「どうしたんだい、ニクス。なんだか顔色が悪いよ」
気がつけば、ジェイドが心配そうにこちらを見ていた。
「ありがとう。でも、ご心配には及びません。少し眠気がありますが……。そうですね、顔色が良くないとすれば、昨夜夜更かししてしまったからでしょうか」
とっさに言いつくろった。
「そうなんだ。大丈夫?」
ジェイドはそれ以上追及しようとはしなかった。
「ええ」
カップの中にかすかなさざ波が立つのを、ニクスは習慣的な笑みを浮かべて眺めた。
これは、きっと夢だ。
過去の夢の中にいるに違いない。
逃避にも似た非現実的な考えだったが、ニクスはそう思わずにはいられなかった。
そう考えなければ、アルカディアがいまだタナトスに悩まされているらしいことも、アンジェリークの指にニクスの指輪がないことも、それなのにニクスの中にエレボスが存在しないことも説明できない。
階段を下りてくる足音を聞きながら、ニクスはカップを口に運んだ。
嫌な夢だ。
それもかなりリアルな。
ニクスは眉をひそめた。
紅茶の味も、口の中に感じた不安の苦味を消してはくれない。
やっと幸福な毎日に慣れてきたせいか、この頃の思い出はニクスには少し辛いものだった。
それでも、自分の中に悪意の塊が存在しないだけでもかなり状況は違って見えるものだ、とニクスは遅れてやってきた二人に笑顔を向けた。
だが、ニクスが夢が夢でないことに気づいたのは、それからすぐのことだった。
2
ニクスは花壇の前に立っていた。
アンジェリークに助けられて二輪だけ咲かせられたはずの花が、今は花壇一杯に咲きほころんでいる。
エレボスさえいなければ、アルカディアはこんなにも美しくなるのだとニクスは改めて思った。
「すばらしい、ですね」
しかし、思わずのばした指先に触れたとたん、花はいつものようにあっけなく茶色く枯れしおれた。
「花壇のお手入れですか?」
背後から突然声をかけられて、ニクスはひやりとした。
「……ええ」
ニクスは、アンジェリークの視界に枯れた花が入らぬようにさりげなく振り向いた。
「お手伝いします」
「いえ、お言葉はありがたいのですが、もう戻ろうかと思っていたところですので」
やんわりと断る。アンジェリークは小首を傾げてニクスをじっと見た。
「そうですか。じゃ、お茶にしませんか?」
「いいですね。ではお願いしょうか」
ニクスが差し出した腕に、アンジェリークはためらいなく手を触れた。
花壇を離れながら、彼はちらりと振り返った。
祈りもむなしく、花壇の一角は無残なありさまになってしまっている。
──彼女が気づく前になんとかしなくては。
アンジェリークの話にあいづちを打ちながらも、ニクスはうわの空だった。
ニクスは今の状況を信じられないでいた。
自分は今、最後に覚えている時からほぼ一年後の未来にいる。
それだけでもありえないと思えるのに、エレボスは滅ぼされ、隣にいるアンジェリークは女王にはならずに自分の妻になっているという。
さらに不思議なのは、そんな出来事の間、ニクスは眠っていたわけでもなく、これまでと同じように生活していたらしいということだ。
そして、ニクスはまだアンジェリークに自身に起きたことを言えないでいた。
幸せそうに微笑みかけてくれる彼女に、彼女を妻に迎えた記憶が自分にはないことを、どうやって伝えればよいのかわからなかった。
そして、ニクスはあの朝から、夜中に急ぎの仕事をするから、と言って元の部屋で眠ることにした。皆が──アンジェリーク本人ですら──二人が一緒に眠ることを当然だと思っていても、そうしても良い、と思うことができなかったからだ。
だが急ぎの仕事があるから、という言いわけも長くは持つまい。一緒の屋敷にいれば、これからさらに苦しくなるのは目に見えている。仕事を口実に、しばらくここを離れたほうがいいのかもしれない。
だが、ここを離れることにも大きな懸念があった。
ニクスの中には、エレボスがいる。
すでに浄化され、消滅したと聞いたエレボスだが、今もどす黒い塊のようにニクスに沈んでいるのが感じられる。
浄化されたせいか、その力はかなり弱弱しくなっているようだ。そのおかげか、このところは発作の兆候もない。しかし、確かにそれは自分の中におぞましく息づいている。
何よりも、ニクスにはそれが恐ろしかった。
そして、ニクスにはひとつの疑いがあった。
もし、自分がもともと記憶などなくしていないとすればどうだろう。
自分が、ここにいるはずのニクスでないとすれば。
それはありえそうにもない話だったが、そう考えればつじつまが一気に合う。
──このままでは、の幸福な世界をまた不幸にしてしまうかもしれない。
「エルヴィン?」
アンジェリークはニクスの腕にエスコートされたまま、揺れる茂みに向かって声をかけた。それに答えるように、銀色の猫が弾むように二人の目の前に姿を現す。
「エルヴィン、あなたもお茶につきあってくれる?」
アンジェリークが優しく声をかける。しかし、猫はアンジェリークを見向きもせず、ニクスをうさんくさそうに横目で眺め始める。しばらくそうした後、突然エルヴィンはさっと身を翻して小路を走っていった。
「あら、なんだか機嫌が悪いみたいですね」
「猫は気まぐれなものですから、しかたありません」
「でも最近はニクスさんにもすっかりなついていたのに……」
「虫の居所が悪かったのかもしれませんね」
追及を恐れて、つい返事がそっけなくなってしまった。その失態をなんとかフォローしようとニクスが口を開いた時、小路の向こうから見慣れた顔が現れた。
「久しぶり。元気だった?」
大きな荷物を抱えたジェイドが笑顔を見せた。
恐れていたことが起きたのは、他の二人も陽だまり邸に着き、オーブハンター全員が顔を揃えた夕食の席でのことだった。
テーブルにつく前から、体調がよくないことをニクスも自覚していた。が、それは予想もできないほど急激にやってきた。
息を潜めていたはずの邪悪な気配が体の中で沸騰するように泡立ち、ぶくぶくと膨れ上がっていく。
体中を痛みに締めつけられ、引き絞られる。
ニクスはなんとかテーブルのふちを握ったが、体中をかけめぐる痛みをこらえるには、それはあまりに頼りない支えだった。
脂汗がにじみ、視界が薄暗くなっていく。皆に見られているのは、意識のどこかでわかってはいたが、どうすることもできないままニクスはひたすら押し寄せる苦痛に耐えた。
「ニクスさん、大丈夫ですか?」
アンジェリークの声が遠い。
大丈夫です、と答えたいが、声にできない。
「寝かせたほうがいいね」
力強い腕が肩に回るのを感じながら、ニクスは目を閉じた。
次に気づいた時には、ニクスは自分のベッドの中で横になっていた。
どうやら最悪の事態は回避したらしい。少し疲れてはいるが、苦痛はもう感じない。
ニクスがほっとため息をつくのと、右手がぎゅっと握られたのは同時だった。
「ニクスさん……」
ベッドの脇に座ったアンジェリークは今にも泣き出しそうだ。
「すみません」
乾いたのどに、声がからんでかすれた。
「久々の夕食会でしたのに、すっかり台無しにしてしまいましたね」
「いいんです、そんなこと」
「そうだな。またやればいいだけのことさ」
そう言ったレインに目を移す。ヒュウガが同意するようにうなずいた。
「気分はよくなった? 水なら飲めそう?」
尋ねるジェイドに礼を言い、ニクスはベッドの上に起き直った。
皆に見られているのを感じながら、ニクスは水のグラスを空けた。
「もう大丈夫ですよ」
アンジェリークが心配そうに見つめてくる。
「ほんとうに?」
「ええ。もうなんともありません」
笑ってみせると、彼女は安心したように表情をゆるませた。
「こういったことはよくあるのか?」
「いいえ、近頃はありませんでした」
ヒュウガの問いに答えたのは、ニクスではなく、アンジェリークだった。
「エレボスが浄化されたのに、なぜこんなことが起こるんだろうな」
レインの言葉に、ニクスは息をのんだ。
「……どうして」
なぜ皆当然のことのように自分の秘密を知っているのだろう。
記憶のない時の自分が、なんらかの理由でこの重大な秘密をもらしてしまったのだろうか。
それとも、やはり。
「原因はやはり、エレボスなのか?」
「それは俺たちにはわからないことだね」
皆の視線が痛い。
「ニクス」
ニクスは観念した。理由はわからないが、こうなった以上、ごまかしとおすわけにはいかないだろう。
「こんなことを言って、信じていただけるかどうか」
「信じるぜ」
レインがニクスをさえぎった。
「だから正直に教えてくれ」
「ええ」
アンジェリークがさらに強く手を握ってくれる。
「お察しの通り、私の中にはエレボスがいます」
部屋の中の空気が張りつめた。
誰かが長く息を吐く。
もう全部、言ってしまったほうがいい。ニクスは腹をすえた。最悪のことを言えたのだから、もう何を言ってもさほど変わりはないだろう。
「それから、私はここにいるはずの私ではないようなのです」
「どういうことですか? ニクスさんはニクスさんじゃないんですか?」
「私には、一年前からの記憶がありません。ここにいる私はまだ、エレボスと戦っている途中なのです。私だけでなく、あなたがたも」
ニクスはひとつ息をついた。こんな荒唐無稽な話を、どう説明すればわかってもらえるのか、自分でも自信がない。
「記憶を失ったのかと思いましたが、どうやらそうではないようです。私はなんらかの原因でこちらのニクスと入れ替わってしまいました。エレボスを連れたまま」
しばらく、皆無言だった。
「そんなことが……」
「なぜ」
「それは後でお話しましょう」
いっせいに話しだした三人に、アンジェリークが言った。
「ニクスさんは疲れているはずです。ともかくゆっくり休んで、どうするかはそれからです」
「そうだね、もう少し眠るといい」
「安心して休んでくれ。何かあってもオレたちに任せておけばいい」
「ああ」
「アンジェリークがそばにいるんだから、大丈夫さ。でももしまた苦しくなったりしたら、俺たちにもすぐに教えて欲しいな」
三人を見送ったニクスは、その場を動かないアンジェリークに見つめられていることに気づいた。
「もうしわけありません。あなたをだますつもりはなかったのですが……」
いいえ、と彼女は首を振った。
「きっとなんとかできるはずです。今は私がついていますから、ニクスさんは安心してお休みになってください」
優しい言葉が胸にしみた。アンジェリークだけではない。誰も自分を責めるようなことは言わなかった。
「はい」
ニクスは素直に目を閉じた。
そうでもしないと、熱くなった目頭を隠せそうになかったからだった。
3
「今度の依頼はウォードンからだ」
サルーンのソファに陣取ったレインは、声に出して手紙を読み上げた。
最近、怪しい影が夜な夜なウォードンにある劇場の屋根の上に現れるらしい。
巡回の最中にそれに出くわして昏倒した警備員の話によれば、その影自体を目視することはできなかったが、なにやらひんやりと冷たいものが体をすり抜けていったような気がする、とのことだ。
「警備員が倒れた、ってことはタナトスらしい話だが、劇場の屋根なんて生き物のあまり来ない場所にずっと出る、なんていったいなんなんだろうな」
レインが手紙をとんとん、と指で叩いた。
「タナトスにしてはおとなしいな」
ヒュウガが腕を組む。
「そうだね。昼は出ないんだろう?」
「そうらしい」
「でも、劇場の方たちは不安に思ってらっしゃるんでしょう? だからこうして依頼の手紙をくださったんでしょうし」
アンジェリークは各々のカップにお茶を注いでいる。
「そうですね。劇場は人の集まる場所ですから、安全であるかどうかは大きな問題になりますし」
「どっちにせよ、一度見てみないとなんとも言えないな」
「そうだな」
レインの言葉に、ヒュウガは即座に同意した。
「ここで話していてもらちがあくまい」
「そうですね」
アンジェリークもうなずいた。
「じゃあ、今度は誰と行くつもりなんだい?」
ジェイドは皆に焼き菓子を回し始めた。
自分以外の三人が、期待するようなまなざしでアンジェリークを見ている。
ニクスはその場からそっと視線をそらした。
依頼を解決するのは、浄化能力を持った自分たちの義務だとわかっているが、なぜだか気が進まない。
タナトスとの戦いは、自分の中ではもう過去のことだ。なのに、再び過去を繰り返さなければならないとは。
「ニクスさん、パートナーになってくれませんか?」
しかし、こういう時に限って、アンジェリークが選んだのはニクスだった。笑顔でうなずきながら、ニクスは内心でため息をついた。
さっきまで何かとニクスに話しかけていたアンジェリークが少し静かになった。
どうやら眠ってしまったらしい。
穏やかな呼吸がこころもち深くなり、少し頭をゆらゆらさせているのが可愛らしい。
ニクスはこちらを見上げるエルヴィンに微笑んだ。
「寝かせておいてあげましょう」
ニャ、とかすかに返事をした猫もどこか眠そうだ。
陽だまり邸からウォードンまでの道はそれほど険しくない。乱れのないひづめの音か、それとも規則的な馬車の揺れに眠気を催したのだろう。
眠くなるのもしかたのないことだ。彼の記憶どおりならば、この時期は依頼が立て続けにあったはず。
馬車に備えつけてあるブランケットを取り出し、アンジェリークにかけてやってから、ニクスは自分も目を閉じた。
ここは夢の世界ではない。
数日をこの世界で過ごした後、ニクスが出した結論はそれだった。
夢にしては何もかもが現実的でで、しかもいつになっても覚める気配はない。
時間をさかのぼったのかと思ったが、この場所にもうひとりの自分が存在せず、自分の中にエレボスの気配すらしないということはどうやらそうではないようだ。
やっと穏やかな生活が始まったというのに、逆戻りしてしまうとは、とニクスは運命の皮肉を笑わずにはいられなかった。
こうやって目の前で眠っているアンジェリークも、この世界では最愛の妻ではない。さんざん味わったはずの甘い唇も、柔らかい髪も、恥じらいながらささやかれる愛の言葉も今のニクスには手が届かない。
何も知らないでいるより、一度手にした幸せを取り上げられるほうが辛いことをニクスは実感していた。
それ以外のことはほとんど記憶どおりだ。その点は少しありがたいが、どうやってここに来て、どうやったら帰れるのかに関してはまったくと言っていいほどわからない。
わからないが、今は戦わないわけにもいかない。
ともかく、ここにとどまらざるを得ないのだし、そのうち帰る方法も知れてくるだろう。
ただ、過去と違う点がある。ニクスがエレボスに憑依されていないことだ。それは幸いでもあり、心配でもあった。
その頃の自分と比較すれば、心も体も比べものにならないほど楽だ。昔のように、いつ悪しきものに飲み込まれるか、いつまで耐えられるのかと怯えないでいられるだけでも、かなり精神的な負荷が軽い。
ごくたまにだが、エレボスが自分に入り込もうとしているのを感じることがないではない。しかし、今のニクスにはそれをはねつけることはさほど難しくない。
だが、アルカディア全土に現れるタナトスが消滅していないことを考えると、過去の自分と同じようにエレボスに憑依されている者がいるのかもしれない。
最大の懸念は、自分がここにいるのと同じく、ここにいるはずだったニクスが、自分が元いたところに飛ばされているのではないかと言うことだ。
──エレボスを連れたまま。
もし彼──自分を彼というのもおかしいが──自分がもといた時点に行ったとすれば、エレボスも一緒にエレボスのいない場所に行ってしまったことになる。
あの世界ではエレボスの本体自体は消滅してしまっている。そして彼女はもう女王の卵ではない。あの時、屋敷には使用人を除けば彼女しかいなかったはずだ。
今、元の世界はどうなっているだろう。
つい最悪の事態を想像したニクスの背筋を冷たいものが走った。
戻りたい、とニクスは心から願った。
一分一秒でも早く、アンジェリークの無事を確かめたかった。
「レイン!」
横を歩いていたアンジェリークが大声をあげた。
本屋の店先にいたレインがこちらを見る。
「お買い物?」
「ああ。で、依頼は?」
「いろいろと調べてみましたが、やはりタナトスだと考えていいようですよ」
「そうなのか」
「今晩、屋根に上ってみることになったの」
「大丈夫か?」
「ええ、高いところは平気だから」
ニクスは二人の会話を聞きながら考えた。
「お手伝いをお願いしてもよろしいですか」
劇場の屋根は高い。一応万全を期してはいるが、万が一のことも考えられないわけではない。
「いいぜ。何時に行けばいい?」
「では、六時に劇場の前で」
「わかった」
レインはちらりと時計を見てからうなずいた。
──やはり頼んでよかった。
数時間後、ニクスは自分の判断が正しかったことを知った。
下から見たときはそれほどでもなかったが、劇場の屋根は登ってみるとけっこうな急斜面だ。風もかなり強い。
ニクスはアンジェリークに屋根の片隅を示した。屋根板のすきまから芽を出していた雑草がいちように枯れはてていた。
「タナトス、ですか?」
「そうでしょうね」
二人から離れて歩き回っていたレインが、両手を口もとに当てて二人を呼んだ。
「ここならいいんじゃないか?」
戦いの足場になりそうな場所を探してくれていたらしい。
二人は慎重にその場に向かった。
「綺麗ですね」
足元がしっかりしたせいか、アンジェリークにも周囲を見渡す余裕ができたらしい。風で乱れる髪を押さえながら、彼女は遠くを見やった。
西の空はまだ夕焼けが残っているが、その光が届かないところはもう、宵の群青色が広がっている。
夕陽をあびた屋根板は、錆びた銅の色が夕焼けで微妙な色に輝いている。
「こんなこと言っている場合じゃないのはわかってるんですけど」
二人の視線に、彼女は言いわけするように小声でつけくわえた。
「ああ、綺麗だな」
ニクスが何も言わないうちにレインが答えた。
「だが、タナトスがこのまま増え続ければ、こんな風景も見られなくなる」
「ええ」彼女の表情がひき締まった。
「できることから頑張りましょう」
とたん、空気が変わった。
「来ましたよ」
ニクスは声をかけた。
空間が少しひずんでいるのがわかる。久々の、しかしなじんだ感覚がニクスを包んだ。
ニクスは杖を手にして、一歩前に踏み出した。
妙だ。
じわじわと輪郭を濃くしはじめたタナトスに対峙した時、ニクスはその怪物がいつものものはと違う、と感じていた。
影が薄い、といえばいいのだろうか。通常なら、向こうから襲いかかってくるはずのタナトスは、いつまでも出現した場所にとどまったままゆらゆらとかげろうのように揺れている。
ニクスは慎重に間合いを計りながら、それに近づいてみた。それでもタナトスは動かない。
ひゅ、と風を切って飛んできた触手が杖に触れる。変に手応えのない感覚だが、ニクスにはゆるく巻きついたそれを振り払うことができなかった。
杖が変化しない。浄化能力が発動しない。
そのことに気づいたのは、タナトスの姿がかなりはっきりと見えてからだった。
──しまった。
ニクスはなんとか杖を取り戻そうとした。しかしタナトスの触手は杖を放そうとしない。
力任せに取り返そうとしたニクスは自分の失策を思い知った。ただの腕力で、人間がタナトスにかなうはずがない。
ニクスの手からもぎ取られた杖を、タナトスは宙高く放りあげた。
「ニクスさん!」
背後から彼女の悲鳴が聞こえる。
混乱しつつも、ニクスは彼女を守ろうと数歩あとずさった。数本の触手がそれを追うようにしゅるしゅるとのびて来る。
攻撃もできないが、避けるには場所が悪い。
──どうする?
触手はぐねぐねとニクスに肉薄してきている。速くはない。まるで抵抗できないニクスをもてあそんでいるような動きだ。
鎌首をもたげるように、触手は一度身をひき、ためた勢いをそのままこちらに向けて、ぐうっとのびた。
もうおしまいか、とニクスが思った時、突然触手が砕けた。
浄化の光をおびた弾丸が、触手を貫いてはぜる。
レインは休む間もなく、タナトスの本体にも数発の弾丸を打ち込んだ。
もともと薄いタナトスは、それだけでほとんど力を失ったようだ。弾丸の後も消えず、砕かれた触手も復活しない。ずるずると流れ出る何かが腐り臭いにおいをあたりに振りまいた。
「今だ!」
レインの声にかぶさるように、彼女が指を組んで祈り出す。青白い光がタナトスにとりつき、拡散するようにタナトスごと消えるのを、ニクスは呆然と見つめていた。
「どうした?」
レインに声をかけられて、ニクスは我に返った。
「わかりません。ですが、私は今、浄化の力を失っているようです」
「なんだって?」
「今ご覧になったとおりですよ」
「ニクスさん……?」
元の世界ではもう必要のない力だ。もしかしたら退化してしまったのかもしれない。
「ともかく、陽だまり邸に帰ろうぜ」
「ええ」
話さなければならないこともある。
ニクスは心配そうな二人に向かって微笑みかけた。
「帰りましょう。夜がふけてしまわないうちに」
4
「あなたと一度、ここに来てみたいと思っていたのですよ。ですから、まだ彼とここにいらしたことがないとは意外でした」
ニクスはアンジェリークに話しかけながら、屋敷のドアに古風な鍵を差し込んだ。
ウォードン郊外に建つ、古いが豪壮なこの屋敷は、ニクスの生家だ。
「ここには、父母と私が住んでいました。父の仕事の関係上、ふだんは家族でウォードンにいることも多かったのですが、私はここで生まれて育ったといってもいいでしょう」
最低限の手入れは人に任せてある。古びてはいてもさほど傷んではいないようだ。
屋敷に足を踏み入れたアンジェリークは興味ぶかそうにあたりを見回している。
一時は手放すことも考えたが、どうしてもできなかった家だ。
「長く住んでいたわけではありませんが、やはり懐かしいものですね。私は父母を亡くしてから、後見人の意向でウォードンで教育を受けましたから」
ニクスはつぶやいた。
はじめは寄宿舎のある学校に入学する予定だったが、ニクスの体調が思わしくなく、原因不明の発作を起こすこともあり、家の体裁を考えた結果ニクスには家庭教師がつけられた。
「成人してから何度か戻ってはきましたが……」
先祖に誇りこそあれ、父母の思い出のつまったこの屋敷に暮らすのはニクスにはつらすぎた。
「年をとらないこともあって、ひとところに長くいることはできませんでしたしね」
アンジェリークがこちらを振り返った。
「ほら、そんな悲しい顔をしてはいけません」
「……素敵なおうちですね」
「ありがとうございます。今となっては何もかも古風ですが、ね」
ニクスはくすんだ階段の手すりにそっと触れた。
エレボスが自分の中に存在する以上、家を存続させる、などということは思いもよらなかった。罪深い自分など中に巣くうものとともに滅び去ればよいのだと、いつもそれだけを願っていた。
だが、この世界にいたニクスはもう、そんな苦しみからは解放されているのだと聞く。
いつか近い未来に、この家や陽だまり邸を子どもたちが走りまわることになるだろう。
そう思うと、羨望に胸が焼けそうになった。
「いつか、ここに誰かが住めたらいいのに」
隣に立つ彼女がぽつりとつぶやいた。
「……あなたの家は」
「もう、ありませんから」
アンジェリークは笑おうとしたが、あきらめたようにうつむいた。
「タナトスに襲われた後、火事で半焼してしまったんです。父と母の思い出の品もほとんどがそれで。だからうらやましいです。思い出のあるおうちがあって」
ニクスは手近な椅子の覆いをはずし、ハンカチを敷いた。
「どうぞ、ここに」
「ありがとうございます」
アンジェリークは素直に座った。
「過去を変えることはできませんが、あなたと彼なら、きっと素晴らしい思い出を生み出していくことができると思いますよ」
こういうのも身びいきと言うのでしょうか、と尋ねると、アンジェリークはくすくすと笑った。
「それを見られないのは、少し心残りですが」
「……ニクスさん?」
「私は、ここにはいられません」
ニクスは言った。
「でも」
「私はニクスですが、あなたの夫になれた幸運なニクスではないのです」
アンジェリークは左手にはめた指輪を守るように、胸に手をあてた。
「ここにいたくない、というのではありません。ただ、エレボスを抱えたままここにいるわけにはいかない、というだけです。たとえ小さなかけらであっても、それを核にしてエレボスが育ってしまわないとも限りませんから」
「でも、まだどうにもならないと決まったわけじゃありません」
「いいえ。私にはわかっているのです。エレボスの本体は、私の元いた世界にいるのです。それに」
ニクスは不安げな彼女に笑ってみせた。
「ここに長居するのはここにいるはずの私に申しわけないですからね」
「そんな」
「ですがひとつだけ、あなたに甘えてもよいでしょうか」
「いいですよ。どんなことですか?」
ニクスはアンジェリークの前にひざまずいた。
「ある言葉を聞いていただきたいのです。向こうの世界では、口にすることは許されない言葉です。少なくとも今は、まだ」
アンジェリークの手を取る。この程度なら、こちらのニクスも許してくれるだろうか。
「愛しています。あなたを、心から」
ほっそりとした手の甲に唇を落とす。
「ありがとうございます。いつかニクスさんが、向こうの私にそう言える日が来るといいですね」
優しい声だった。
「ありがとう……ございます。これで心残りはなくなりました」
ニクスは顔を上げた。
「祈ってください、アンジェリーク。今なら、あなたと宇宙意思の力を借りれば戻れる予感があるのです」
「でも、ニクスさんは帰るのが辛くないんですか? またタナトスやエレボスと戦わなくてはならないのに」
「辛い? そうかもしれませんが、私には強い味方ができましたから」
「味方、ですか?」
「これほど美しい未来が存在するとは思いもしませんでした」
ニクスはつぶやいた。
この世界は、ひとつの、そして最良の可能性だ。
「もしかしたら、私にもこんな未来があるかもしれない。そう思えばエレボスとの戦いも今までよりは悲しいものではなくなるでしょう」
アンジェリークはニクスの頬に触れた。
「ニクスさんは、いつでも自分ひとりで抱え込みすぎです。向こうに戻ったら、向こうの私にも少しは頼ってみてくださいね。多分大丈夫だと思いますから」
「ええ。そうさせていただきます。──では」
アンジェリークが瞳を閉じた。
ぐるぐると何かが胸の中に押し寄せてくるような、奇妙な感覚がニクスを襲う。
次の瞬間、ニクスの意識は闇に溶けた。
「……もっと詳しくお話することもできますが、きっとルール違反になるでしょうね」
陽だまり邸ですべてを話し終えた後、ニクスは目の前に置かれたカップに手を添えた。
皆はあっけにとられたように動きを止めている。
「君は未来から来たんだね」
「未来、といえばそうでしょうが、何か少し違う気がします」
「違う?」
ヒュウガがけげんそうな顔をした。
「未来におけるひとつの可能性、といったほうが正しいでしょう」
「ふうん」
レインが興味深げに緑の瞳を光らせた。
「きっと、そこは幸せな世界なんでしょうね」
アンジェリークが嬉しそうに言った。
「ニクスさんがいて、私がいて、きっとみんなもいるんでしょう? そしてタナトスを倒す必要がない、っていうことはタナトスはいなくなって。他のことはわかりませんけれど、それって十分幸せなことだと思います」
「……そうですね。私は幸せでしたよ。あなたが思われるよりもずっと、ね」
それだけのことを幸せ、と言うアンジェリークが、ニクスには少し悲しかった。
見慣れた少女の顔が、記憶にあるよりも疲れて張りつめていることも。
「じゃあ、帰りたいですよね」
「はい」
一瞬迷った後、しかしニクスははっきりと答えた。自分のいるべき場所は、ここではない。
「でも、どうすれば帰れるんだろう」
ジェイドがソファに深く座り直した。
「さあ、それがわかれば……」
空になったカップに、アンジェリークが手を伸ばす。お代わりを受け取ろうとした時、ニクスを引きずられるような感覚が襲った。
エピローグ
「ニクスさん!」
アンジェリークが呼んでいる。
ニクスは目を開けた。どうやら自分は床に寝てしまっているらしい。
「ニクスさんは、私のニクスさんですか?」
「もちろん、私はいつもあなただけのもの、ですが……」
そう答えながら、ニクスはアンジェリークの左手にちらりと目をやった。
──帰ってきたのだ。
「ここは?」
「ニクスさんの家です。ニクスさんに連れてきてもらったんです。あの、ニクスさんですけど、ニクスさんじゃない方に」
「わかっていますよ」
ニクスは説明しにくそうに話すアンジェリークにうなずいた。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい」
ふつうのあいさつがなんだかおかしくて笑いあう。
「帰りましょう、陽だまり邸へ。皆にニクスさんが帰ってきたことを知らせないと」
アンジェリークはニクスをせきたてた。
それなのに、外に出た彼女は振り返り、しばらく無言で屋敷を眺めた。
「また、ふたりでゆっくり来ましょうね」
「ええ。彼に先を越されてしまいましたが」
「明日はニクスさんのお誕生日会、やり直ししましょうね」
「ああ、もうそんな日になるんですね」
「ええ」
アンジェリークは笑い、ニクスの手に自分の手をすべりこませた。
「どうぞ」
ニクスはひとつまばたきをして、差し出されたカップを受け取った。
ここに、帰ってきたのか。
ほっとしたような、残念なような気分だ。
ニクスは飛ばされる前の時間の続きに戻ってきていた。
礼を言ってカップを受け取りながら、ニクスは夢のような記憶を反芻した。
「良い香りですね」
なんと甘い未来だったことだろう。
いつか自分もあんな未来にたどりつけるのだろうか。
紅茶の香りに包まれながら、ニクスは寂しく微笑んだ。