考えることをやめ、アンジェリークの声に心をゆだねれば、世界が急に遠くなった。なんだか本当に眠ってしまいそうだ。
しかし、ルネが心地よい眠りの波にさらわれそうになった時、突然に歌がやんだ。
いぶかしく思いながらしばらく待ってみたが、歌はとぎれたままだ。急に訪れた静けさが気に障り、ルネは落ち着かない気分になった。
──どうしたんだろう。
ルネは重いまぶたをこじあけた。
アンジェリークは、銀の大樹の太い根に上体をもたれかからせたまま目を閉じていた。銀色に光る木もれ日がちらちらと彼女の上に降りそそいでいる。静かな呼吸に胸がゆるやかに上下しているところを見ると、別に何かあったわけでもなさそうだ。
だが、ふだん見る元気いっぱいのアンジェリークとはまるで違うたおやかで優しい姿に、なんとなく胸がいっぱいになった。
声をかけようかと迷ったが、もし彼女が眠りかけているのなら起こしたくはない。こうやってルネの求めるままに甘やかしてくれてはいるが、アンジェリークも日々の務めに疲れていないわけがない。
それに、寝顔も嫌いじゃない。むしろこんなに無防備な姿を見せてくれることが嬉しい。
──起きたら、なんて言おう。
かわいい寝顔のことをからかえば、きっと彼女は真っ赤になって恥ずかしがるだろう。
ルネがひとり微笑んだ時、淡いさんご色の唇から再びさっきの歌がこぼれてきた。
どうやら眠ってはいなかったらしい。
少し残念に思いながら、ルネはぼんやりとアンジェリークを見上げた。
すんなりとか細い首に、繊細なつくりの顔。こんなにはかなく見えるのに、芯は鋼よりもダイヤモンドよりも強いなんて誰が思うだろう。でも、だからこそアンジェリークは何もかもを自分ひとりで抱え込もうとしてしまうのだ。
あの時も、そして今も。
もう少し自分を頼ってくれてもいいのに、とルネは胸の中でひとりごちた。
──ボクはキミを守るためにいるんだから。
突然湧き上がってきた強い気持ちを、ルネは抑えずに解放することにした。
身をよじり、アンジェリークの細いウエストに腕を回してぎゅっと抱きしめる。
「きゃっ」
眠っていると思っていたのだろう。ルネに抱きつかれ、アンジェリークは小さく悲鳴を上げた。
(中略)
「遅いな」
教団長の執務室には二人の男がいた。それぞれの務めに定められたローブを身にまとい、机に向かっている姿は、初老を越えた年かっこうといい、頬骨と鼻の高い面ざしといい、どこか似かよっていた。
「遅い」
黒髪の男がもう一度繰り返した。
「幼い子どもを連れての旅だ。オラージュからでは高地の雪にも寒さにも慣れてはいないだろう。道中はなるべくゆっくりと来いと言ってある」
金髪の男は書類から目を上げずに答えた。
「さすが教団長様はお心遣いが細やかでいらっしゃる」
皮肉まじりの言葉に、金髪の男──セレスティア教団長アレクシードはかすかに眉を上げた。
「図書館長殿はせっかちで困るな」
薄い唇の端をゆがめて、アレクシードは手にした書類をひらひらと振った。不意の風にろうそくの光が揺れ、壁を覆うタペストリーにぼやけた影が散った。
「末尾のサインが抜けている。そんなふうに気を散らしているからだ。君らしくないな、ロラン」
セレスティザムの貴重な蔵書を司る図書館長は、アレクシードの手からその書類をしぶしぶ受け取った。
「アレクシードは気にならんのか?」
ロランは半分以上が白くなった黒髪にいらいらと指をさしこみながら、もう片方の手で書類にサインを入れた。その態度とはうらはらの、きっちりと整った文字を面白く眺めながら教団長は答えた。
「気になるとも」
長年の盟友にうなずく。お互い老境にさしかかっているくせに、まるで若者のようにそわそわしているロランの様子がおかしかった。
「私の跡継ぎだ。気にならないわけがない」
「それにしてはふだんとまったく変わらないな」
「そうか?」
アレクシードは肩にずり落ちていたフードを整え、色あせた金髪をフードの中にたくしこんだ。
「できるだけのんびり来ればいい。着いてしまえば、もう外を見ることもできないからな」
それは教団長として定められた務めのひとつだ。聖なる銀の大樹を護るため、教団長は聖都を出ることを許されていない。
「そうだったな」
ロランは痛ましげな顔をした。
(中略)
「見てごらん」
うながされるままに大樹を目にしたルネは、驚きに目を丸くした。
日が暮れた今でさえ、月の光と大樹の内側からにじみ出る淡い輝きで、聖域はほんのりと明るい。
ルネを抱いたまま大樹に近づくと、その輝きはいっそう強まった。大樹にもわかっているのだ。この子どもがいずれ自分に仕える者になることを。
「……おりる」
ルネは軽く身をよじってアレクシードの腕から抜け出そうとしたが、思いもよらない高さにとまどったようにアレクシードを見上げてきた。
「おろして?」
アレクシードがそっと下ろしてやると、ルネはたちまちぱたぱたと駆け出し、銀の大樹の真下に立った。
アレクシードは息をつめた。
ルネはただ、魅入られたように銀の大樹を見上げている。アレクシードには、大樹も彼に注意を向けているのがわかった。
その言葉のない見つめあいを邪魔しないよう、アレクシードは足をしのばせてルネの後ろに立った。
「きれい」
それは樹に向けての言葉だったのか、ひとりごとだったのかはわからない、小さなつぶやきだった。
だが。
「きれいだね、かあさん!」
勢いこんで振り向いたルネは、背後の気配が母親でないことに気づいてうつむいた。大きな瞳がみるみるうちに涙でいっぱいになる。
アレクシードは頬にこぼれた涙を指でぬぐってやった。しかし、それだけでは一度切れた我慢の糸を修復するには不十分だったのだろう。ルネはアレクシードのローブに顔を埋め、わっと泣き出した。
泣くのは当然だ。
アレクシードは不憫な子どもを見下ろした。こんな年齢で親から引きはなされて平気な子どもなどいない。ましてや、彼の場合は母一人子一人だったと聞いている。さぞかし母の愛情をいっぱいに受けて育てられてきたのだろうに。
アレクシードはそっとルネの頭を撫でた。
銀の大樹も、突然泣き出した子どもにとまどっているかのようになりをひそめ、まるで二人を見守るかのように沈黙している。