後半はネタバレなので前半ばっかりですがサンプル。
「どうしても行かなくちゃいけないんですか?」
寝台の上に半身を起こした花は、そばに座った孟徳に訴えた。
やっと孟徳と想いが通じ、この世界にいると決めたのに、どうして今さら離れて暮らさなければならないのか、花には納得できなかった。
孟徳がいつも自分の身を案じてくれていることはよくわかっていたし、ありがたいと思っている。
でも、一緒にいたかった。
花の言葉に孟徳は優しく笑ったが、花を移すことは諦めてくれなかった。
「理由はさっき説明したよね。ここは君が治るにはうるさすぎる。医者も、少しでも静かなところがいいと言っていたしね」
孟徳は花の髪をそっと撫でながら、まるで子どもに言ってきかせるような口調で言った。
「でも、私、孟徳さんと離れるのは嫌なんです。それでもここにいちゃ駄目なんですか?」
「……そうだね、俺も花ちゃんを離したくないよ」
触れるか触れないか、重さを感じさせない抱擁が花を包む。
「だけど、少しでも早くよくなって欲しいんだ」
「でも、そんなの寂しいです。今だってなかなか会えないのに」
「うん」
孟徳の腕に、軽く、あくまで軽く力が入るのを感じる。
「離れるのは寂しいけど、このままでいて君を失ったりしたら」
「そんなことないです」
花は孟徳に最後まで言わせなかった。
孟徳はどうしても悪い想像に傾きがちだ。放っておけばどんどんエスカレートするに違いない。
花は優しい腕の中で顔を上げた。
「私は大丈夫ですから。ほら、今日も調子がいいし、すぐに良くなるんじゃないかな、って」
だが、孟徳は折れなかった。
「そうだね。でも、お願いだから今はおとなしく『はい』って言ってくれないかな?」
「言っても言わなくても、もう決まってるんでしょう?」
もうこうなったら、何を言っても無理だろう。花は諦め半分で孟徳と視線を合わせた。
「……でも、嫌がる君を無理矢理連れていくようなことはしたくないんだ」
「孟徳さん……」
暖かい褐色の瞳が心細げに揺れている。
この人は、本気で花を失うことを恐れているのだ。
花の中で何かが溶けた。
自分がうんと言えば、きっと今、ほんの少しの間だけでも孟徳を安心させてあげられる。
「行ってくれるね?」
もう断れない。
「会いに、来てくださいね」
とうとううなずいた花は、涙をこらえて孟徳の胸に顔をうずめた。
(略)
寒い。
そして息苦しい。
花はゆっくりと目を開いた。
ぼんやりとした視界に、低い天井が見えた。
口の中の気持ち悪い感触に吐き気がするが、吐きだそうとしても吐きだせない。
──ここはどこだろう。
背中が痛い。どうやら硬い床にそのまま寝かされているようだ。
手を動かそうとして、縛られていることに気づいた。ならきっと、口の不快感は猿ぐつわだろう。
半分眠った頭で妙に冷静に考え──そこではっきりと目が覚めた。
「気がついたようだぞ」
とっさに花は声の方向に視線を動かした。
そこにはふたりの男が座っているのが見えた。ふたりとも大柄だが太ってはいない。それどころかひとりは痩せぎすと言っていいほどだ。
服装は質素だが、庶民のものではなく士大夫のものだ。
そして、どちらにも見覚えがなかった。
近くに他の人間の気配はない。
ふたりにじっと見つめられて、花は自分のおかれている状況をゆっくりと理解しだした。
あの時、自分は輿から引きずり出された。助けられたのだとすれば、こんなふうに縛られているはずがない。
たぶん、自分はあの騒動の中でこのふたりにさらわれたのだろう。
そこまではすぐにわかったが、なぜさらわれたのかはまだわからない。
自分を花と知って狙ったのだとすれば、孟徳や自分への恨みかとも考えられる。孟徳には敵も多い。それに自分も、玄徳軍でも孟徳軍でも作戦を成功させている。
だが、恨みだとすればこうして生かされている理由がわからない。
すぐに殺さずこうして生かされているということは、生かすだけの値打ちがあるということだ。もしそうなら、人質として、なんらかの交渉の駒にされることだってありうる。
「おい」
花の思考を、男の声が破った。
花の横にしゃがみこんだ武人らしい男は、手にした短剣を花の目の前にかざした。
「今から猿ぐつわを取ってやる。だが、もし大声を出すようなことがあれば、すぐに殺す。聞かれたことだけ答えろ。……わかったな」
花はなんとかうなずいた。すぐに上半身を起こされ、猿ぐつわが取られる。花は急いで口の中の濁った息を吐き出した。
「お前はどこの誰だ」
無表情な問いかけだったが、花はほっとした。
このひとたちは、どうやら自分のことを知らないらしい。
「何を笑っている」
花の安堵にいら立った男が喉元に刃をつきつけた。
「答えろ」
「花といいます」
「女ごときの名を聞いているのではない。どこの家の何だと聞いている」
花は答えなかった。縛られているのだから、何事もせず返してくれる気はないのだろう。ともかく目的がわかるまで、安易に答えるのは危険だ。
「答えろ」
胸ぐらをつかまれ、花は思わずもれそうになった悲鳴をかみ殺した。