医師が帰った後、花はぼんやりと今の会話を反芻していた。
(温泉かぁ)
この世界に来る前の夏休みに家族と行ったことを思い出す。山深い場所にある温泉の柔らかい湯とほのかに香る空気を思い出して、花はため息をついた。
今は無理だ。
孟徳はきっとうんとは言ってくれないだろうし、許してくれたとしても多忙の孟徳を残して自分ひとりで行くのはなんとも寂しい。
このあいだの誘拐さわぎのこともある。孟徳が花の外出を心配するのはしかたのないことだし、立場を考えれば遊山での遠出を気軽に、とはいかないのもわかっている。
だから花は何も言わないことにした。
だが、孟徳は侍女たちから話を聞いていたらしい。
「花ちゃん、温泉って好き?」
ある日いきなり尋ねられて、花はとまどった。
「温泉ですか?」
「行ったことはある?」
「はい、あります。昔、家族と……」
「君の国にもあったんだね。君の国の温泉ってどんな感じだった?」
「そうですね。私の行ったところは外にあって、岩でできた大きなお風呂みたいなところでした」
「ふうん。……で、花ちゃんは温泉は嫌い?」
質問が微妙に変わった。
「嫌いじゃないです」
孟徳は不意にいたずらっぽい表情になった。
「その湯がいいなら、ここまで運ばせようか?」
「お湯を、運ぶんですか?」
「うん。この中はちょっと無理だけど、屋敷の池をつぶして温泉の湯で風呂を作ったらそれっぽくなるんじゃないかな」
「ちょっと待ってください」
花は慌てて孟徳を止めた。
それほど遠いというわけでもないが、温泉の水を汲んではるばる運ばせた上に、冷めたそれを沸かしなおして入る。
孟徳にとってみればなんでもないことなのだろうし、花も許都から出ないで済むから安心は安心だろう。
だが、元の世界ならともかく、人か牛馬しか運搬手段のないこの時代に、それはあまりにぜいたくすぎることのように思えた。
花も少しずつこの世界のことをわかってきている。老親のためなどならともかく、たかが妻妾のためにそんな大がかりな奢侈をするのは、孟徳がいずれ世人にそしられる種にもなるだろう。
「そんなぜいたくなこと、私はしたくないです」
だから花は首を横に振った。
「そう? 俺は君にはなんだってしてあげられるし、君が治るならこんなことは安いことだと思うよ」
「孟徳さんの気持ちは嬉しいです。でも、そういうのはちょっと……」
「わかったよ」
孟徳は優しい目をして、花の髪を撫でた。
「君は俺のことを考えて言ってくれてるんだよね? ありがとう。もう言わないよ」
それきりその話は沙汰止みになった──はずだった。
(中略)
「はい」
確かに寝所の中では体のすみずみまで触れられ見られているとはいえ、それとこれとは別の話だ。
「私、もうあがります」
胸がどきどきするのは、きっと温泉のせいだけじゃない。
「俺が先だったんだし俺が出るよ。きちんとあったまらないと出た後が寒いしね。ゆっくり入っておいで」
「孟徳さんは?」
「ん? 俺? これくらいは平気だよ」
花は慌てて孟徳を引きとめた。
「じゃ、もう少し入っていませんか? 孟徳さんが風邪をひいちゃったりしたら大変ですし……」
「ありがとう。じゃ、そうしようかな」
ちゃぷん、と音がして、孟徳がもう一度湯に入りなおしたのがわかった。
「温泉って気持ちいいですよね」
「そうだね。心までのびるみたいだ。来てよかった」
ほんとうに伸びでもしているのか、孟徳はほうっと息をついた。
「あのさ」
気軽な声で孟徳は言った。
「花ちゃん、こっちにこない?」
花は思わず聞き返した。
「え?」
「大丈夫。花ちゃんはいつでもかわいいから」
そういう問題ではないが、きっとわかって言っているのだろうから始末が悪い。
宮中では、いつもふたりを照らしているのはぼんやりとした灯りだけだ。半分暮れているとはいえ、太陽の下で裸を見られるのにはかなり抵抗がある。
(中略)
仕事は終わったはずなのに、寝台に腰かけた孟徳は広げた書物に目を落としている。
「孟徳さん?」
のろのろと顔が上がった。
ゆっくりと目の焦点が合い始める。
その表情に背筋が震えた。
──怖い。
体がこわばってしまって動けない。
「……花、ちゃん?」
優しい声がひび割れている。
「ただいま、帰りました。喉、どうかしたんですか?」
何が起きたのかわからなかった。
ぐい、と手を引き寄せられ、敷布の上に押し倒された。
「孟徳さん!」
花の叫びも聞こえないように、孟徳は花を組みしいた。
言葉はない。代わりにあるのはただ耳もとに聞こえる荒い息づかいだけだ。
「孟徳さん、痛いです!」