「お待ちください」
呼び止めた。このまま部屋に返してはいけない気がした。
こんな寂しそうな顔をしたままで。
「夜分遅くにお一人では……。お供いたします」
「え、でも」
「参りましょう」
ためらうアンジェリークを押し切るように、ルネは先を促した。
「……教団長様」
後ろから呼び止められる。
「私がお持ちします」
アルフレドが返事を待たずに手を伸ばしてきた。
「いいよ、大丈夫」
囁くと、
「いいえ、陛下のお供をなさるのですから、ご遠慮は無用です」
アルフレドは小さく笑んで、自分の腕の中にルネの荷物を抱え込む。
「いってらっしゃい」
……気恥ずかしい。
きっと微笑ましいとでも思っているのだろう。さぞ重いだろうに、アルフレドの目じりはほんの少し下がっている。
──これだから、小さいときからのつきあいってやつは。
ルネはアルフレドを小さく睨んでから、軽くなった腕をアンジェリークに差し出した。
「……参りましょうか?」
静まり返った廊下を行く。そもそもこの翼には、女王の居室や自分の執務室があることもあって、人はほとんど寝起きしていない。夜だけでなく昼ですらひっそりとしているほどだ。
ルネは、人目のないことを確かめてからマスクを外した。
「どうしたの?」
「どうしたの、って何がですか?」
アンジェリークはいぶかしげな顔で聞き返した。
「こんな夜中に」
「え、だって、お茶が欲しいなって思ったんです」
彼女はさっきの言い訳を繰り返した。
「それだけ?」
「それだけですよ」
「そう」
そもそもこんな時間まで、眠れないでいること自体がどうかしている。そう言いかけて、ルネは口を閉じた。
「ね、アンジェリーク。部屋に帰ったらすぐに寝るつもり?」
「そうですね。寝ないと」
「もし寝ないんだったら、少しだけ待っててくれる?」
「え? 待ってるって……?」
アンジェリークが、目を瞬かせる。
「あったかい格好でね」
ルネはにっこり笑って、アンジェリークの耳に唇を寄せた。
「いいこと、しよう?」
(略)
「──ごめんなさい」
彼女には、世界を導く使命がある。
それは自分とのことなどとは比べ物になるわけがない。
「もういいよ。だから泣かないで」
そう言った途端、アンジェリークの瞳からとうとう涙があふれだした。
思わずアンジェリークを抱き寄せる。軽いためらいの後、アンジェリークはルネの腕の中にいた。
触れた肩は、記憶よりも軽かった。
「泣かないで、って言ったのに」
指で、そして唇で彼女の涙をぬぐう。
「そんな辛い顔で、ボクを見ないで。──笑ってよ、ね?」
ささやけば、素直に涙を止めようと息をつく。そんな彼女がいじらしくて愛しかった。
「……行かないで、ください」
長いキスの後、わずかに息を切らしてアンジェリークは言った。
「行かないで、って? ボクはここにいるよ?」
それは、あまりに場違いな言葉のように思えた。
「前だってそう。ルネさんはいつも、辛くないみたいに遠くへ行ってしまうじゃないですか。辛いなら辛いって言ってください。苦しいなら苦しいって言ってください。それとも、私にはそんなこと言えませんか? それとも、私と別れるのなんて平気なんですか?」
「……アンジェリーク」
どうしようもないことを、口に出すのは嫌だった。言っても叶わない願いに、形を与えるのは嫌だった。諦めさえすれば、何もかもがうまく行くというのに。
だから、ルネは言う。嘘をつくのは、昔から慣れている。
「平気なわけないけど、辛くはないよ。──ボクはキミがここに来てくれただけで十分幸せだったんだから」
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