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過ぎし日の春

「でも、これでいいんでしょうか」
「何がです?」
「公瑾さんに反対されるのは、辛いんです」
「でしたら」
「……言うことをきけばいい?」
 言葉を継がれて、自分の言おうとしていたことのおかしさに気がついた。
「反対されたらやめておく、っていうのは正しい方法じゃないと思います。少なくとも、ずっと一緒にいるつもりなら」
「そうですね」
「私は公瑾さんと一緒にいたいです」
「だから反対するな、と?」
「いいえ」
 花は首を横に振った。
「それも変ですよね。だって公瑾さんばかりが我慢することになるでしょう?」
 裏返しになるだけだ、と花は言った。
「だから、お互いに譲れるところまでは譲りませんか? それに、私は私の、公瑾さんは公瑾さんの望むことをきちんと伝えあっていないと、いつかきっとすれ違ってしまうんじゃないか、って」
「……そうですね」
 的確な指摘に公瑾はうなずいた。悔しいが花の言い分は間違っていない。
「ともかく、私は今仕事を辞めたくないんです。公瑾さんの希望は知っていますけど、辞めちゃったらきっと後悔してしまいます」
 花は昨日よりずっと落ち着いた言葉選びをしている。きっと昨夜も、それから今日もいろいろと考えたのだろう。
「だから、仕事は続けたいです。もちろん、昨日言ったとおりおうちのこともおろそかにしませんし、体にも気をつけます」
 公瑾はため息をついた。
「言いたいことはそれだけですか」
 そう言うと、花ははっと口をつぐんだ。
「ごめんなさい」
「いいえ。──私もあなたにいろいろと押しつけてしまっていたようです」
 受け入れられないと否定されたように感じてしまうのが自分の欠点であることは自覚している。愛していればいるだけ、さらにその気持ちが強くなることも。
「いいお嫁さんじゃない私は、嫌いですか?」
 ぽつりとこぼした言葉も愛おしい。
「どうしてでしょうか」
 公瑾はそっと花に近づいた。
「以前は嫌いだ、嫌いなはずだと思ったこともあったのですが」

(中略)

 夜半は少し回っただろうか。
 花は傾いた月を眺め、いつの間にか丸まってしまっていた背中をぐっと伸ばした。
 春といえども夜は冷える。すっかり温度を失った指先に息を吹きかけるのも何度目になるだろうか。
 公瑾はまだ来ない。
 別れたのはもう日暮れに近い時間だったのだから遅くなるのは覚悟していた。待つのはいくらでも待てる。だが、公瑾に何かあったのではないかと思うと何も手につかない。誰かに尋ねることも考えたが、もう皆寝静まっている時間でもあるし、ことが伏せられているかもしれないことを考えると得策ではない。
(それにしても寒いなあ)
 袖の中に冷えた手をひっこめる。寝床に入れば温まるだろうが、公瑾が来るのだからだらしないことはしたくなかった。
「花殿」
 ささやくような訪いが聞こえたのは、さらに月が傾いた頃だった。
「お疲れさまでした」
 そっと戸を開けると、公瑾はするりと入ってきた。水を浴びたのだろう。髪が少し濡れている。
「遅くなりました」
 花の勧める椅子に腰を下ろすと、公瑾はふっと微笑んでみせた。顔色が濁って見えるのは、きっと疲れのせいに違いない。
「あの部屋には、女性の遺体がありました」
 公瑾は目がしらを指先で押さえた。片頬を照らしていた月光がさえぎられ、表情が薄闇に沈む。
 問題は、彼女が殺されていた、ということだ。
 遺体はこの陽気で傷んでおり、人相が良くわからないほどだったと言う。ただ、年かっこうと身に着けていた物から、尚香の乳母のひとりだとわかったらしい。
「尚香さんの乳母さんですか」
 この世界ではある程度身分の高い子どもには乳母がつけられる。当然尚香にも数人の乳母が仕えていた。
「尚香様は衝撃を受けられるでしょうね」
 公瑾はいたましそうに眉をひそめた。
update : 13.04.27
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