「寒いですね」
白い息と一緒に吐き出したつぶやきに、隣に立っていた尚香が我に返ったようにあいづちをうった。
「え、ああ、そうですね」
「そうですか?」
尚香さんは全然寒くないみたいですけど、と花は笑った。
「……すみません、つい夢中になってしまって」
尚香の目はきらきらと輝き、頬は紅潮している。孫家の姫君らしくふわふわした毛皮をあしらった衣装が、今は暑そうにすら見える。
「うちはみんな、こういったことが好きなんです」
「そうなんですか?」
「ええ」
尚香は恥ずかしげに、しかし誇らしげにうなずいた。
花は尚香の熱い視線の先に目をやった。
稽古場の中央で木剣を交わしているのは、仲謀と公瑾だ。
きっとそうなのだろう、と花は思った。
剣を構えた仲謀は、尚香と同じようにいきいきとしている。孫家はこの世界を三分する勢力のひとつをまとめる一族なのだ。武ばったことを好む気性はある意味当然と言ってもいい。
「あのふたりも寒くないみたいですね」
汗だくになった仲謀が、うっとうしそうに濡れた前髪をかきあげる。
「そうですね」
答えた尚香がいたずらっぽい顔をして続けた。
「兄上なんて、違う意味でも頭から湯気が出そうですけれど」
花は思わず声に出して笑ってしまった。
「公瑾殿は相変わらず冬なのに涼しげですし」
「ほんと、対照的ですよね」
尚香も声を合わせるように笑った。
今日、ふたりが余人を締め出し、秘密で剣の稽古をしていると知らせてきたのは尚香だった。
「いつもはふたりでこっそり練習しているんですよ」
私には必要ないって見せてくださらないんです、と尚香は綺麗な唇をかすかに尖らせた。
「もしよければ、花さんも一緒に来て頂けませんか? こんなことを言っては失礼ですけれど、兄上はあなたを気に入っていますから、あなたと一緒ならきっと見学させてくれると思うんです」
「いいですよ」
花はすぐに答えた。尚香には仲謀軍に来て以来、いろいろと世話になっている。もちろん公瑾も細やかに気を配ってくれているが、尚香は男の公瑾ではわからないこと、例えば長い衣装を着たときに裾を踏まない歩き方などといったことを丁寧に教えてくれている。この程度の願いをかなえるのは当たり前だ。
尚香の読みは当たった。
──集中できない。危ない。見学なんて女には必要ない。
仲謀はいくつも理由を挙げて追い返そうとしたが、
「私も公瑾さんの練習が見たいんです」
という花の言葉に、最後には
「好きにしろ。ただし、危ないから稽古場には入んな。そこの隅から見てろ」
と折れてくれたのだった。
──公瑾さんも楽しそうだな。
剣を振るう公瑾を花は何度か見ていた。見るだけではなく、偽尚香の事件の折などはのどもとに剣先を突きつけられたりもした。
そんな時、きまって公瑾は厳しい顔をしていた。
だが、今の公瑾は口元にうっすらと笑みを浮かべたいつもの表情を見せている。
木剣がぶつかり合う鋭い音が空に抜けた。
真正面から飛び込んでいった仲謀の剣は、公瑾の剣に弾かれた。仲謀はわずかにバランスを崩したものの、勢いは殺さないまま横になぐように剣を振る。公瑾はそれもかわしたが、さすがにその姿勢からは追撃できずにいるうちに、仲謀もすぐに姿勢を立て直した。
重い剣を扱っているのに、立ち合いには間のびしたところがまったくない。
「すごいですね」
花はうなずいた。
ふたりは静かに向き合っている。
公瑾の剣の切っ先がつ、と揺れた。仲謀は誘われるままに打ち込んでいく。たちまち激しい攻防が再開された。
「おみごとです」
仲謀の剣が公瑾を捕らえた。
「そういうところがむかつくんだよ! 手ぇ抜くな!」
仲謀は公瑾のわき腹に当てた剣を引きながら大声を出した。
「私はいつも全力でお相手していますよ」
「……もう一回だ、もう一回!」
公瑾の言葉など聞こえないように仲謀は再び剣を構える。
仲謀はさっきからずっと勝ち続けている。だがそれは公瑾がずっと勝ちを譲っているからだった。
だからこそ、仲謀はむきになっているのだ。
「今度はお前から来い!」
「では、参ります」
(中略)
しばしの後、公瑾はとうとう眠ることを諦めた。
闇の中で目を開く。窓から忍び込んだ月光が、物の輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。少し欠けた月の高さから、まだ夜半だと知れた。
寝床からそっと抜け出す。
冷え切った夜気に身を包まれ、公瑾は静かに息を吐いた。
立てかけられた琵琶にふと目がとまったが、手に取る気は起きなかった。宵のうちならばともかく、この時間に楽器の音を立てるのはさすがに非常識だろう。
そして今の自分に必要なのは、ただ荒れた気を慰めるものではない。
そう、まだ取り返しのつかないことではないのだ。
朝議までにはまだ時間の余裕がある。
公瑾は手早く身支度を整えると、愛用の剣を取りあげた。
(中略)
「まだまだですね。腰が据わっていないから手と足がばらばらになるのでしょう」
正直な感想に、花はしょんぼりと肩を落とした。
「先生にも前に同じことを言われました」
招かれて素直に寄ってきたところを、さらうようにして膝の上に座らせる。花はびっくりしたようだが、立とうとはしなかった。
「ですが、あなたは実に楽しそうに舞うのですね」
「舞うのは楽しいですから」
動揺しているのか、花は小さな声で答えた。膝の上にちんまり重ねた手に手を添えると、両手で包んでくれる仕草も愛らしく、気持ちが甘くなる。
花の手を持ち上げ、唇で触れる。膝の上の体がびくりと跳ねる感触を楽しみながら、公瑾は提案した。
「では、今度は私の琵琶と合わせてみましょうか」
「え、でも公瑾さんの琵琶は」
花は言いかけて口ごもる。
「琵琶についてこられるように、ちゃんと練習しておくのですよ」
「……頑張ります。あの、もうそろそろ行かなくちゃ」
そわそわと視線が泳いだ。
公瑾は花の柔らかな髪を指先でかきあげ、耳もとをあらわにした。
「せっかくこうしているのに残念ですね」
腕をそっと撫であげながら囁くと、花はかわいそうなくらい真っ赤になった。
「あの、公瑾さん」
「なんでしょう」