「文若さんは仕事場を移る気はありませんか?」
「ないな」
文若はにべもなく言った。
「でも、文若さんのお仕事はここでなくてもできますよね?」
「ここでするのが一番効率が良い」
文若は硯の中身を確かめ、筆先を整えている。
「お前は私にどこかに移れと言うのか」
新しい木簡に筆を下ろしながら、文若は静かに言った。
「はい。ここにいたら危ないじゃないですか」
「お前が気にすることではない」
さらさらと書きあげながら、花の提案を一蹴する。
「今までにもあったことだ。いちいち気にしていたのでは何もできん」
文若は不快そうに眉をしかめて言い捨てた。
「でも……」
戦場ならともかく、殺されるかもしれないと気を張っていなければならない日常生活は辛くないのだろうか。
「たとえばどこへ移れと?」
「そうですね、宮殿の外の方がいいかなって」
出鼻をくじかれた花はおずおずと言ってみた。
「そのようなこと、できるわけがないだろう」
「どうしてですか?」
「私の仕事は急ぎも多い。機密を要する物もある。そのような案件を帝や丞相から離れたところで扱うなどできるはずがない。運んでいる最中に奪われでもすればそれこそ大変なことになる」
「じゃ、少しだけお休みしたら」
花はさらに押してみた。
「そんな暇があるように見えるか?」
「……見えません」
「いつまで、と決まっているならばともかく、期限のない休みなど取れるはずもないだろう。そもそも病でもないのに休むつもりもないがな」
文若の言うことはいちいちもっともなのだが、自分が狙われていることは一切考慮していない。
「狙われても、ですか?」
「そうだ。私が居場所を移せば、逃げたということになる。私には恥じるところもない。逃げ隠れする必要もない。お前の心配はありがたいが、私はここから離れる気はない。注意はしている。大丈夫だ」
悪いことも恥ずかしいこともしていないのだから、逃げ隠れする必要はない。
正論だ。
だが、その正しさは自分の身を危険にさらしてまで主張しなければならないことなのか。
「……でも!」
思わず大声をあげた花に、文若は眉を寄せた。
(中略)
「文若さん、あれはもう返してきてもいいんですか?」
突然の言葉に、文若の反応は一瞬遅れた。
「ああ」
「じゃ、返してきますね」
「待て」
さっそく文書を手にした花を、文若はやや険のある声で呼び止めた。
「私の話はまだ済んでいない」
「文若さんのお話?」
「なぜ笑った」
花は笑いをこらえた。こんなに真面目なのに、こんなに可愛いなんて反則だ。
花は文若の手が届かないよう、じりじりと扉に向かってあとすさりした。
「笑った理由ですか?」
「早く言え」
文若の声にいらだちが目立ち始める。
「笑ったのは、やきもちを焼いてる文若さんが可愛かったからです。じゃ、行ってきますね」
一気に言い終える。思いがけない言葉だったのだろう、文若は細い目を見開いたまま硬直していた。白い顔にじわじわと血の気が上っていくのがおもしろいくらいによくわかる。
そろそろ逃げないと、と思ったとたん、文若はいきなり解凍した。
「花!」
「行ってきまあす!」
花は文若の大声を背に部屋を飛びだした。