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雨夜




 また、ここへ来てしまっている。
 梨壺の庭は夕刻からの雨にしっとりと濡れそぼっていた。
 御簾の内からはかすかな灯りがもれ、雨音に混じって幾分たどたどしい筝の音が聞こえてくる。
 この闇では部屋からここにいる自分の姿を見られることはないだろう。
 足を止める。
 ふ、と細く息を吐いた。
 内裏は自分にとって居心地の良い場所ではない。生きていたときも、そしてこの姿になってからも。
 今も不断に読まれている経の響きで息が詰まる。あちこちに張られた結界は死人となった身を弾く。このように穢されていなければ、本来足を向けることさえままならないはずの場所。昼に比れば少しはましだが、それでも長くいたいとは思えない。
 なのに、気がつけばこの場所にいる。
「……あかね」
 名を呼べば、とうに返したはずの衣の手ざわりが手のひらに柔らかくよみがえった。
「……あかね」
 もはや、どうして舞っているのかもわからなくなりかかっていたあの時。
 どんどん己が透きとおり、名前すら忘れはててゆく。それすらもどうでもよかった。
 けれど、あの日から自分の時間は巻き戻り始めた。
 亡者となってさまよう年月にこぼれ落ちていったことが少しずつ形を得て立ち返ってくる。
 自分が何者であったのかも、何故こんなところで迷っているのかも。
 衣を返したのは怖かったからだ。布に触れているところから、何か生々しいものが体の中に流れこんでくる気がして恐ろしかった。
 衣を返し、離れてしまえばこれ以上思い出さずに済むかもしれない。そう思った。
 遠ざかれば何もかも薄まる。実際始めはそうだった。けれど、あかねの姿を心のうちに抱いてしまえば隔たりは何の歯止めにもならなかった。
 ただ会いたくて、引き込まれるようにふらふらとここに向かってしまう。
 あの少し奇妙な格好で廊下を行く姿、八葉たちと笑いあう姿。見るたびになぜか胸が痛む。けれど会いに来ずにはいられない。
 
 筝の音がふと途切れた。部屋のうちの気配は動かない。琴の前で眠ってでもいるのだろうか。立ち上がりかけた時、御簾がふわりと揺れた。
「……季史さん?」
 呼ばれた。
「季史さん、そこにいるんですか?」
 廊下の端近くに立ち、返事を待つようにこちらを見ている。きっと見えてはいないのだろうが、その視線にどきりとする。
 一歩踏み出しそうとした瞬間、手燭の灯りが廊下を曲がってこちらに向かってきた。見つかるわけはないが、反射的に身を隠す。
「まだ、お休みではないのですか?」
 女房が二人、眠たげな声であかねに話しかけた。
「うん」
「あまり根を詰められませぬように……」
「ありがとう、もう寝るね」
 女房ともう二言三言挨拶を交わした後、あかねは部屋に戻っていった。
 一足一足のきしみが通り過ぎていくのがまどろこしい。
 衣擦れが遠ざかるのを待って、階に腰を下ろした。
(……ああ)
 まだ胸がおどっている。
 胸元をそっと握り締めた。
 呼ばれたことがこんなにも嬉しい。自分を呼んだあかねの声が愛しい。
 あの声をもっと聞きたい。そう思った。
 けれど、呼ばれるがままに出て行って、自分は何をする気だったのだろう。
 こんな刻限に、こんな場所で。 
 欲しいと思った。届くわけのないことはわかっていたが、それでもあの優しさが欲しかった。
 つくづく諦めの悪い男だ。自分はこのように浅ましいものであったのか。
 成仏することも出来ず、諦めることもできない。
 もはやどうしようもできないことであれば、諦めるほかないのに。
 
 立ち上がれば、あかねの部屋にもう灯りはなかった。あたりはひっそりと静まっている。雨もいつしかあがっていた。
 さっきまで見つめていた場所に背を向けた。
 またすぐにここを訪れてしまうのはわかっているけれど。今夜はまだここを去ることができる、そのことに苦く安堵しながら。
──朝は、まだ遠かった。



update : 2006.09.25
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