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キッチン・ブルー





 ──今日こそ、言わないと。
 望美は、キッチンのシンクに向かう譲の背中を見つめて、小さくこぶしを握った。
 ついでにひとつ深呼吸、と息を吸えば、おいしい匂いに少しだけ気合が削げた。

 有川家のキッチンはいつも綺麗だ。生活感のないしいんとした「キレイ」ではない。しっかり使い込んでいるのに掃除がぴしっと隅々まで行き届いている、温かな「キレイ」だ。穏やかに明るく、いい匂いが漂うこの場所を今まで居心地が悪いと思ったことはない。けれど、こういうときは穏やかなくせに隙のない雰囲気に飲まれて、なんだか気後れがしてしまう。
 コンロのケトルやさっきセッティングした食器が蛍光灯の灯りの下でつややかに光るのをぐるっと見回してから、望美は口を開いた。
「……譲くん?」
 シンクに向かう譲の背中に呼びかける。
「なんですか?」
 譲は手を忙しく動かしながら、振り返らずに応えた。
「……何か手伝えること、ないかな?」
 はた、と手が止まった。
「もう、すぐに出来ますから」
 ありません、と最後までは口に出さない。こう言われると思ってはいた。正直自分の申し出は有難迷惑なのだろうと思う。けれどここで引き下がったらいつもと何も変わらない。
「でも…」
 今日こそは断られても、なんて意気ごんでいたくせに、いざそう言われてしまうとどう続けていいのかわからなくなる。
「いつも食べさせてもらってばかりだし。なんか悪くて」
「いいんですよ。俺が好きでやってることですし。セッティングしてくれただけで十分助かってますよ」
「だって」
「じゃあ、次はお願いできますか?」
「それは」
 続きの言葉がどこかに行ってしまって、口の中に言葉にならない声を飲み込んだ。
 ──やっぱり、駄目だった。
 望美は握っていた拳を開いた。ふっと肩から力が抜ける。お料理の手伝いを断られるくらい、全然大したことではない。全部やってもらえるんだから、文句を言うほうがおかしいのだろう。でも。
 それきり会話は途切れ、譲の手元から聞こえる包丁の音と鍋の中身の煮える音だけがキッチンに響く。
「……どうしたんですか、急に」
 黙ってしまったことが気になったのだろう、譲がタオルで手を拭きながら振り返った。笑ってはいるが、少し困ったような表情で。
「どうしてって……」
 うまく説明できるような理由はない。強いて言えば、さっき言った「いつも食べさせてもらっているから」ということだけれど。

 譲は「好きこそ物の上手なれ」と言うくらいだから、料理は得意以前に好きなのだろう。けれど望美自身は料理が好きでも得意でもない。たまにお菓子を作ったりするのは別として。そんな自分が手伝うのは譲にとって嬉しくないのかもしれない。
(だって、しょうがないじゃない)
 望美の母は料理好きで、実際自宅のキッチンで望美の出る幕などほとんどない。今日のように父と二人で家を留守にするときも、それこそレンジでチンすれば食べられるようにしてくれてある。たまにならファストフードでもコンビニご飯でもかまわないのに。
 今日なんて、有川夫妻と出かけるのに「譲くんも一人でお留守番寂しいでしょうし、譲くんと一緒にご飯食べてなさいね」と言い残して行くくらいだ。
 あなたの娘は年頃の女の子なんですよ!と声を大にして言いたかったけれど、きっと親たちは今でも自分たちが小さかった頃の感覚が抜けないんだろうな、と思う。
 譲もすぐに「じゃあ、僕が何か作ります」なんて請合ってしまうし。
 それでもこうやって、お皿だけ並べて「あとは遊んでいていいですよ」っていうのは、なんだか女の子としては(しかも恋人同士としては)それはどうなの?と思う。しかも最近では毎回こうだ。居心地の良さに浸ってしまえばいいのかもしれない。けれど、もしかしたら一生このままかも、という恐ろしい想像が頭をよぎる。それはさすがに情けなさすぎる、ような気がしないでもない。
「先輩?」
 気がつけば、心配そうに見下ろされていた。
「ううん、別に何もないよ?」
 口にするにはくだらなすぎて、恥ずかしい。
「ありがとう、譲くん」
 顔を見上げてにっこりと笑ってみせたが、譲の表情は晴れなかった。
「違うでしょう?」
 かすかなため息が聞こえた。
 ぽん、と頭に手を乗せられる。その仕草はどこか兄を思い出させる。
「そのままだと汚れます。エプロンを持ってきますから、手を洗って待っててください」
 そう言って譲はキッチンを後にした。自宅から自分のを取ってきたほうがよっぽど早いような気がするが、望美は待つことにした。
 自分の望みはかなったはずだけれど、あまり嬉しくはなかった。本当にしたかったこととは何か違う気がしたし、結局は譲の手を止めさせてしまったにすぎないことも悲しかった。



「安全ピンで留めてますから、外すときは言ってくださいね」
 ぶかぶかのエプロンを引っ張って、なんとか体に合わせてくれながら譲が言った。
「大丈夫だよ」
 じっとしていると、背中で動く手の動きの方が気になってくる。
「ダメです。危ないですから」
 はいできました、と背中を軽く叩かれる。大きすぎるエプロンはある程度フィットしたものの、丈が長いのはどうしようもない。少し摘み上げてみたが諦めて離し、腕まくりをした。
「じゃあ、何をすればいいの?」

 けれど、本当にほとんどやることはなかったらしい。
(もっと忙しそうなときに言えばよかったな)
 シンクでレタスを一枚ずつはがしながら望美は思った。
 メニューがパスタとサラダという簡単なものだったのも災いした。
 けれど、逆に考えるとラッキーだったのかもしれない。こういう簡単なことならいいけれど、いきなり難しいことを頼まれたりしたら「やる」と言ったくせに出来ない、なんてことにもなりかねない。
 それにしても、と隣に立つ譲をちら、と見る。譲は本当に手際がいい。
(上手な人は片付けながら料理するって本当なんだ)
 今使っている物以外はほとんどカウンターに出ていない。
 手際がいいのも才能ならば、自分はその才能もないんだとほんの少し悲しくなる。京にいたときは白龍の神子だったけれど、こっちに帰ってきてしまえば普通の女子高生にすぎない。勉強がすごく出来るわけでもないし、他の事で人並み以上にできることもない。
 譲はそうではない。勉強をとっても部活も家事全般も難なくこなしているように見える。
(ずるいな)
 ふと心に浮かんだ言葉を慌てて打ち消した。人の物をうらやましがるようなことをしても何もならないのに。
 小さい頃は、年の差は大きかった。自分がお姉さん顔をすることもあったし、譲は自分よりも小さかった。
 気がつけば、いつの間にか背も、他の何もかも追い抜かされてしまっている。見上げることが当たり前になってしまったように、譲にこうやって甘えてしまうことも当たり前になってしまうのだろうか。
 もしかすれば、いつか譲には物足りない自分になってしまいはしないだろうか。
「先輩?」
 そのとき、譲に呼ばれていることに気がついた。
「何?」
 今考えていたことを間違っても悟られないように、笑顔を作る。そんな訳がないことはわかっているけれど、もし知られたら情けなさすぎる。
「どれだけ食べるんですか」
「え?」
 慌てて手元を見下ろせば、立派だったレタスがすっかり手のひらサイズになってしまっている。
「ご、ごめん。これ、どうしよ」
 譲は大丈夫ですよ、と笑った。
「明日、何か考えます。そんなに急に傷むものでもないし」
 洗って水を切るときには、何も考えないように手元に集中することにした。簡単なことのはずだが、さっきみたいに考え込んでいて、また失敗したら、と思うと油断はできない。
「先輩」
 呼ばれてどきっとする。また何かしてしまっただろうか。
「な、何? 譲くん」
「それ、半分冷蔵庫に入れておいてください」
「あ、うん。わかった」
 レタスを冷蔵庫にしまって、食べる分は譲の言うままに手でちぎった。
「ねえ、他には何もないの?」
「もうすぐできるって言ったでしょう?」
 味見します?と小皿にソースを取って渡された。
「あ、おいしい」
 青っぽいトマトの匂いがするのに、じんわり甘い。お砂糖の甘さでない、優しい甘さ。缶詰のトマトで作るのも本場らしくておいしいけれど、こういう生トマトのソースは夏ならではの味だと思う。
「でも、普通のトマトソースじゃないよね。何か入ってるの?」
「それは内緒です」
 嬉しそうに笑って、教えてくれない。
 悔しい。
 おいしいけど、悔しい。
 自分では絶対譲をこんなふうに驚かせることはできないから。
「悔しいなあ」
 止める間もなく声に出てしまっっていた。
「何が、ですか?」
 譲が怪訝そうな顔をする。
「だって、譲くんは何でもできるでしょ。こんなおいしい料理だって、何だって」
 恨みがましくならないように、ゆっくり言った。それでも恥ずかしくて顔を上げられない。
 なんてくだらない嫉妬。
「そんなこと、ありませんよ」
 顎の下に指がかかる。抵抗できないまま、顔を上げさせられた。きっと真っ赤になってしまっているだろう。
「初めはできませんでしたよ」
 たくさん失敗もしました、と譲は少し苦笑いした。
「そんなの、聞いたことないよ」
「それはそうですよ。わざわざ教えたりしません」
「そっか。そうだよね」
 すっかり納得したわけではないけれど、頷いてみせた。
「上手になりたいんですか?」
「下手よりかはいいんじゃないの?」
「でも、先輩の手料理ですか。食べさせてもらう人がうらやましいですね」
 声がワントーン低くなる。なぜか雲行きがあやしくなってきたような気がして身がすくんだ。
「……うらやましい?」
 声がうわずってしまう。笑っているけれど、目が全然笑っていない。
「どうして急に、料理がしたいだなんて」
 今まで言ったことなかったじゃないですか、と声までが固くなる。

──ぴんときた。
 このひとはどうして、何にでも一生懸命で、何でもそれなりにこなせるくせに、肝心なことにこんなに鈍いんだろう。
 
「食べさせたい人なんて、譲くんに決まってるでしょ!」
 笑い出したい気持ち半分、やけくそ半分で言い放つ。途端に目の前の顔にぱっと朱がさした。
「先輩?」
「いつか絶対、おいしいって言わせてやるんだから。……でも」
「でも?」
「……すぐには、無理だけど」
 待ってて、と首に手を回して囁けば、待ってますね、と小さな声で答えが返ってきた。
update : 06.09.09
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