どうして景時を誘ってしまったのだろう。
望美は、隣を行く景時をこっそり見上げた。
景時は何か考えこむように、視線を遠くにおいたままゆるゆると歩いている。
何度か声をかけてもみた。が、帰ってくる言葉はいつもどおりのくせにどこかうわの空が透けていて、いたたまれなくなった望美はそのうち話しかけるのをやめてしまっていた。
──これから、どうしよう。
まだ京邸からそんなに離れてはいない。今帰ろうと言い出せば、きっと景時は不審に思うだろう。
気が抜けたような彼の態度に腹立ちを感じないではなかった。けれど、景時が迷惑顔をしないのをいいことに、自分の気まぐれにつきあわせた結果がこれなのだから、自業自得としか言いようがない。
京邸を出る前は楽しみだった外出だった。でも望美は今、一方的に気まずいこの時間を早く終わらせたくてしかたなかった。
どこで邸へ方向を変えようか、と思案しつつうろつかせた視線の先、望美は知った顔を見つけた。確かあれは、菫姫に会いに行ったときに邸にいた女房だ。市女笠こそつけているものの、ちらとのぞいた顔には見覚えがある。
「景時さん」
三度目の呼びかけで、景時は我に返ったように見下ろしてきた。
「ごめんごめん、ぼんやりしちゃってさ。……どうしたの、望美ちゃん」
「あの、知り合いを見かけたので挨拶してきます。景時さんはここで待っててくれませんか」
「そう。じゃ、いってらっしゃい」
道の端に寄った景時はひらひらと手を振った。
「すぐに戻ってきますね」
望美は後ろめたさ半分解放感半分で、彼女のもとに小走りに近づいた。
望美が景時の部屋の前を通ったのは、ただの偶然だった。
何日か降り続いた雨はようやくあがったが、空にはまだ鈍色の雲が重く垂れ込めている。日の光も今の時期にしては弱弱しく淡い。
わずかの晴れ間に用を済ませておかなくてはと思うのか、みな早くから立ち働き、京邸の中は常よりも人少なになっていた。
そんな雰囲気につられて、望美も朝食を済ませた後、とりあえず自分の部屋を出てはみた。が、別に行くあてがあるわけでもない。望美は結局部屋を出たところで立ち往生した。
望美には、神子としてやらなくてはいけないこと以外にそう仕事はない。元の世界にいた時にも家事など得意ではなかったし、ここでも見よう見まねで手伝いするくらいのことしかできない。
邸の外に出るのもためらわれた。一人で出歩くことは止められているし、かといってあてもない外歩きの連れに、忙しくしている人につきあってもらうよう頼むのも気がひける。
望美は両手を胸の前で組み、ぐいっとひとつ伸びをした。
雨続きでずっと邸の中にいたからか、なんとなし湿気がまつわったように体が重い。体を動かせばすぐにすっきりするんだけどな、と息をはく。
──やるならやっぱり、稽古かな。
外に出られないなら、邸内で剣の稽古でもすればいいのだ。庭はまだぬかるんでいるけれど、実戦だと山の中や雨の中で戦うこともある。だから、練習にはちょうどいいかもしれない。
ただ、部屋の前の庭はまだ水がはけておらず、どろどろの小さな沼のようになってしまっている。その上から足で練るようなことをすればきっと庭が荒れてしまうだろう。一瞬迷った望美だったが、日面になるほうの庭ならもう少しはましかもしれないと、出たばかりの部屋から剣を取り、稽古ができそうな場所を探しにその場を離れて歩き出した。
縁の角をふたつ曲がったとき、望美の足が止まった。景時の部屋に入っていく人影が見えたような気がした。そんなはずはない。今日、彼は源氏の用でどこかへ出かけると聞いていた。景時は使用人にもあまり部屋には立ち入らせない。ましてや主の留守中に人を入れるとは考えにくい。
この邸にまさかとは思うが万が一、泥棒やスパイといった良からぬ目的を持った者だったら。
確かめてみなくては、と望美は唇をきゅっと結んだ。
庭に気をやって歩いていたのではっきりとは見えなかったが、部屋に入っていったのは男のような気がする。望美は用心しいしい、足音をしのばせて景時の部屋に近づいていった。
だが、部屋にいたのは予想外にも
「景時さん!」
部屋の主だった。
雑巾を手に、床に四つんばいになっていた景時が振り返る。
「あれ、望美ちゃん。どうしたの?」
「せっかくのお天気でしょう? 稽古しようと思って……。それより景時さん、どこかにいらっしゃるんじゃなかったですか?」
座りなおした景時は肩をすくめた。
「うん、そのはずだったんだけどね。さっき使いが来て、今日は都合が悪くなっちゃったんだって」
「それで……お掃除なんですか」
「そうなんだよ。昨日まで雨だったじゃない? 暗くて気がつかなかったんだけど、今日こうやってお日様が出たらホコリだらけなのが目についちゃって我慢できなくなってさ」
「じゃあ、お手伝いします!」
「えっ? そんなのしなくていいって望美ちゃん。望美ちゃんまで汚れちゃうし、ね?」
「だから掃除するんじゃないですか。それにどろどろのお庭で稽古するよりかは汚れないですよ」
「でももうあとほんのちょっとだけなんだ。それにここは俺の部屋だしさ。女の子とはいえお客様の望美ちゃんに手伝ってもらうわけにはいかないでしょ?」
景時は、困ったように慌てて手を振った。手伝わせるわけにはいかない、というよりも手伝わせたくないようだった。
「そうですか」
「うん、お手伝いしてくれるっていうのは、すっごく嬉しかったんだけど、また今度ね」
「じゃあ、お掃除が終わった後は何かありますか?」
「んー? 別に何もないと思うけど」
「じゃあ、外へ歩きに行きませんか? どこに行きたいってわけじゃないんですけど」
しばしの沈黙。景時は少し考えるようにちらりと遠くに目をやってから、いいよ、と言った。
「家の中ばっかりだったしね。今日は別に何もないだろうし、行こうか」
「部屋に戻って、出かける仕度をしてきます。終わったら呼んでくださいね」
「うん、じゃあさっさと終わらせちゃうかな」
「頑張ってくださいね!」
わざとはしゃいだ声で応援してみせて、望美はその場を離れた。
せっかく出かけられることにはなったものの、何か少しひっかかっている。
さっきの景時は、何かいつもとは違っていた。普段はなんだかんだ言って、形だけでもこちらの気の済むようにはからってくれる人が、今日は対応こそ相変らず柔らかく、でも頑なに断ってきた。
だからつい、ねだるように誘ってしまったのだ。
これも断られたらどうしよう、そんな気持ちが顔に出ていたのかもしれない。
わがまま言っちゃったかなぁ、と望美は廊下を行きながらため息をついた。
望美は器用に水溜りを避けて走っていく。その後ろ姿を見送った景時は、視線を空に移した。
道々には長雨のくすみが残っていたものの、空模様は朝よりは多少明るくなってきている。
が、景時の気分は晴れなかった。
原因はわかっている。先ほどの使者のたわいもない世辞だ。
いまだにほめられることには慣れないでいた。けれど、最近ではさすがに初めの頃のような嬉しさを含んだ反発の感慨を抱くこともなくなっている。社交辞令にいちいち反応するほど暇でも若くもない。
が、今日の使者のそれは違っていた。
まだ物慣れしていない若い使者の、階の下より景時を見上げる視線には素直な憧れがこもっているように思えた。口上を棒のような調子で口にした後、どうすればそのような知略が身につくのかと訊いてきたときも、視線の熱さは変わらなかった。
──ときどきに、できることをしただけだよ。
そんな、答えになっていない答えですらありがたそうに聞かれてしまって、景時は正直困惑した。
その気分を、今も引きずっている。
自分は小器用かもしれないが、才はない。それは事実であり、自身日々痛感していることでもあった。いくさ上手と言われるたびに、寒々しい気持ちになった。
もともと戦など好きでもなく、向いてもいなかった。
一つの合戦が終わるたび、戦からもそしてもう一つの恐怖からも命永らえることができたことに安堵はしたが、それもつかの間、また新たな戦に向かう。その繰り返しだ。近頃では、恐れよりも勝ち続けることの難しさと果てのない繰り返しへの疲れが先にたつ。
勝っても勝っても、勝った気がしなかった。
この地位につき、勝ちを重ねることは、武家に生まれた者として確かに名誉なことではあるが、景時はそんなことのために戦ってきたのではなかった。ましてや、功名心でも忠誠心のためでもない。
死にたくもなく、死なせたくもない。ただそれだけのために戦っている。
そう思っていた。
だが、使者が去った後、景時は気づいてしまった。
負けないことよりも、勝つことに執心している自分がいることに。
勝って、そして賞賛されることの心地よさを手放したくないと思っている自分に。
──なんて卑しい。
怯えに追われているだけなら良かった。それなら臆病な自分以外を恥じなくてもすんだはずだ。
失敗することの恐ろしさのみでここまで走ってきたはずなのに、いつしかかなうはずのない幸福の夢を抱いてしまっている自分が情けない。
凡人がどんなことをしたところで、龍神の神子とつりあうべくもないことくらい、わかっているのに。
景時は眉をよせた。
つりあう、などとどうしてそんな大それた言葉が出たのだろう。
──馬鹿なことを。
自分は頼朝様の駒のひとつに過ぎない。
こんな戦続きの日々もいつかは終わる。このまま源氏が平家を滅ぼせば、小競り合いこそ残りはすれ、今のように大がかりな合戦はなくなる。そうなったとき、自分に居場所は与えられるだろうか。
「走狗煮らる、か」
自分がいかに勝ちを重ねても、それは最後の瞬間を引き伸ばす悪あがきにすぎない。
彼女を幸せにできるのは、少なくとも自分ではない。
「大丈夫ですか?」
気がつくと、望美に覗き込まれていた。知らぬ間にうつむいていたらしい。
「あ……うん、もう話は終わったの?」
「はい、お待たせしちゃってごめんなさい」
私が誘ったのに、と望美は両手を合わせて謝った。
「いや、そんなの全然。じゃ、行こうか」
と塀から背中を離して歩きだそうとしたとき、望美の手が腕に触れた。
「全然、じゃありません。……ごめんなさい」
思わぬほど強い視線に、たじろいでしまう。
「どうしたの? そんなに長いこと待ってないよ」
「景時さん、今日は何か考えてるみたいだったから。邪魔したみたいで、ごめんなさい」
すっかり見抜かれてしまっていた。
「邪魔だなんて思ってないし、誘ってもらって嬉しかったんだけど……。でも、望美ちゃんはオレがこんなでつまらなかったんだよね。ごめん」
「そんなこと……ありませんよ」
「駄目だよ。俺のほうこそ謝らなくちゃ」
「いいんです。私が無理に誘っちゃったんだし」
押し問答。普段ならもっとうまく切り抜けられる会話につまづいてしまっている自分に気づいて、景時は舌打ちしたい気分になった
いっそ彼女のことだけを考えていられたら。あの幼馴染のように。
「ごめんね、望美ちゃん」
「そんなに、気にしないでください」
「うん、ごめんね」
さらに謝ろうとした景時を両手で制して、望美は言った。
「もう謝らないでください」
ぴしりと言われて、景時は口をつぐんだ。
「どうしても気になるんなら、ひとつ貸しにしときます。駄目ですか?」
「……いいの? それだけで」
提案に戸惑いながら、現金にも少し気が軽くなる。
「いいんです。だから、今度何か楽しいことしましょう? ね?」
いいことを思いついた、というふうに望美は顔を輝かせている。
「楽しいこと……何がいいかな」
「そうですね。これから暑くなりますから……」
あれこれと思いつくことを並べながら歩き始める。
真剣に考え始めた望美の横顔を眺めながら、景時はふ、と息を吐いた。
これからどうなるかはわからない。いつまでこうしていられるかもわからない。
けれど、きっと彼女を喜ばせよう。
せめて一度だけでも。
せめて、そばにいられるあいだだけでも。