「おや、見つかってしまいましたか」
春もまだ浅い、京邸の縁先。
腰掛けて待っていた弁慶が、望美の後ろから廊下を来た朔に言った。
「ええ、玄関先でばったり、ね」
にこやかに返す朔の視線は弁慶に届くよりも先に、ざくざく自分の背中に刺さる気がして望美は思わず肩をすくめた。
「まさかこんな日に、望美を連れ出そうとするなんて……」
あきれた方ね、と嘆いてみせる朔に弁慶はまったく悪びれない笑顔を返す。
「こんな日だから、こそですよ」
「まあ、そうはそうですけど……」
一応は同意してみせたものの、朔はまだ言いたりないらしい。
「大の男が裏門からおいでになるんですもの。あまりみっともないことはなさらないで」
「これからはなるべく気をつけますよ」
正面から入るといろいろと面倒なので、ついね、と弁慶は頬を小さく掻いた。
「これから、なんて。望美がここにいなくなれば、弁慶殿もそうそうこちらにいらっしゃらないでしょう?」
ふざけるような言葉なのに、ほんのり寂しい。
「そんなことはありませんよ」
応酬は終わりそうにない。望美は、玄関からこっそり持ってきた草履を踏み石に落として履いた。
「望美?」
「なあに、朔?」
「今日は早めに帰ってね。今日の夕餉は望美の好きなものにしましょうね」
叱っても、結局はこうやって笑顔で送り出してくれるのだ。
「うん。ありがとう、朔」
あら、そんなこと、と笑った朔は
「明日のこともあります。今日は早く帰して下さいね」
と弁慶にはしっかり釘をさした。
「わかっていますよ。……では、行きましょうか、望美さん」
見送る朔に行って来ます、と手を振って、二人は京邸を後にした。
「あの門番、僕にはだんだん風当たりがきつくなるようですね」
さっきくぐってきた裏門の前に立つ影に、弁慶はちら、と目をやった。
「そうですか?」
表の厳めしい門番とは違って、裏の門番は鎌倉から付き従ってきたという穏やかな老人で、望美とはいつしか立ち話もする仲だ。
「こうやって君を連れ出すので、憎まれてしまったのかもしれませんね。君は皆に好かれる人ですから」
「そんなこと、ありませんよ」
「そうですか?」
そうですよ、と返すのもなんだか可笑しくて。
市へ向かう、いつもと変わらない京の道。そちこちの影には吹き寄せられた雪が残っているけれど、風は春を含んで柔らかい。
「……もう、一年経っちゃうんですね」
ほんとうに、あっという間の一年だった。
「支度はもう、済んだんですか?」
こうやって連れ出してしまった僕が言うことじゃありませんけど、と弁慶は笑った。
「もう、ほとんどは。こっちには手ぶらで来たし……」
支度と言っても望美にはこれといって思いつかなかった。
「朔がいろいろ考えてくれてるんですけど」
と言いかけて、ふと寂しくなる。
戦いの合間にも、戦いが終わってからもずっと一緒にいた。気丈で細やかで、でもとても可愛い、姉のような親友。けれど明日からは、今日までのようにはいかない。
弁慶と京邸からこんな風に出かけることも、もう。
早い時間の市は人が多かった。市も、少しずつ活況を取り戻し、並ぶ店の数も売られている物も増えてきている。
弁慶が幾らかの薬種を包んでもらっている間に、望美は近くの店を覗いて歩いた。
「何か探しているんですか?」
追いついた弁慶が訊ねる。
「今日は買いたいものがあるんです」
「なんですか?」
「何を買うかは決まってないんですけど、朔には今までずいぶんお世話になったし、何かお礼を、と思って」
本当なら何か作れたらよかったのだが、なかなか時間も取れなくて結局何も作れずにいた。ほんの少しなら手持ちもある。自分で稼いだお金ではないのが少し残念だけれど。
「でも、何を買ったらいいのかわからなくて」
いろいろ考えてはみたものの、どんなものが気に入るのかも、そもそもどこで売っているのかもわからない。市に来て見て回ってみれば何か考えも浮かぶかと思ったのだけれど、そううまくはいかなかった。
「朔殿は尼僧ですから…そうですね、香や写経用の紙なんかもいいかもしれませんね」
「そんなものも、ここで買えるんですか?」
紙や香なんて、この時空ではなかなか庶民の手には入らない。
「難しいかもしれませんが……でも他のものもあるかもしれませんよ」
一応見て回りましょうか、と弁慶は望美の手を引いた。
それから市をぐるりと回ってみたが、これはという物はなかなか見つからなかった。結局先に弁慶が薬種を買った店で小さな香の袋を手に入れた。銭を入れた袋はすっかり軽くなってしまったが、思いついて門番にと柔らかく干した柿も幾つか買い求めて、二人は市を後にした。
市を一周したといっても、買い物が多いわけでもない。少し手間取ったものの、まだ日は高い。
帰りたくなかった。
この道をこんなふうに送ってもらうのも、今日で最後だと思うとやはり感傷的になってしまう。
全てが終わった後、明日が来るのが待ち遠しかった。けれど、あっという間に日は過ぎて。
「どうしたんですか?」
小さい吐息を聞きとがめられる。
「……なんでも、ありません」
俯いて、足元の短い影を見つめながら歩く。ほんとうになんでもないことなのだから。ほんの少し、寂しいだけ。
弁慶が、不意に立ち止まった。つられるように歩を止める。
「……じゃあ、やめてしまいませんか?」
「え?」
意外な言葉に思わず見上げた横顔は、いつもと同じように微笑んでいた。
「そんな寂しそうにするくらいなら、やめてしまいなさい」
「だって」
何故そんなことを。
いきなりの言葉に、どう答えていいのかわからない。
「みんなにも迷惑がかかるし……」
「迷惑なんて、かけてやればいいんです。君は京を救ったんですから、それぐらい」
笑ったままの弁慶が、どこか遠く見える。
ひとけのない、川沿いの道を風が通る。急に寒さが増した気がして、身がすくむ。
今さら、そんなこと。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
「……弁慶さん」
意を決して口を開いたとき、思いもかけない強い力で抱きしめられた。
「嘘ですよ」
耳もとで囁かれる。
「駄目です。もう、君が嫌だと言っても僕は君を放せません」
だから、と腕を緩めて瞳を覗き込む。
「お願いですから、やめるなんて言わないで下さい。……明日、僕の妻になることを」
笑ってはいるけれど、どこか心細い囁き。
ほっとした。
手を伸ばして、頬を包む。
「……大丈夫。やめませんよ、弁慶さん」
望美はそのまま、弁慶の唇にそっと唇を寄せた。
「本当はね、怖かったんですよ」
手をつないで歩きながら、弁慶は小声で言った。
「本気で君にやめる、って言われたらどうしようかな、なんて」
「自分で言い出したのに?」
「君があまり寂しそうにしていたから、少しヤキモチを焼いてしまったんです」
照れたように早口で言って、つないだ手にぎゅっと力をこめる。
「すぐにやめない、と言ってくれると思ったんですが、君は悩んでしまったし」
「だって、弁慶さんがそんな意地悪を言うなんて思わなかったんです。本気で悩んだんですよ?」
私、怒ってもいいんじゃないかと思うんですけど、と手を握り返す。
「それは謝ります。……でも、別に京を離れるわけではありませんし、朔殿も寂しそうでしたから、京邸にもお邪魔じゃないくらいには顔を出しましょうか」
「いいんですか?」
「出ないとあの門番にも余計に目の敵にされそうですからね」
そう言って、弁慶は手に持った干し柿の包みを持ち上げてにこりと笑った。