望美は、手にしていた小枝を小川に投げた。
くるくると回転しながら川に落ち流れていくそれを見送って、ため息をつく。
館から目と鼻の先にある林は、外から見るよりは深くない。ふり仰げば、木々の間から淀みなく澄んだ空が見える。けれど踏み分け道に溢れだした草の葉先にまつわられ、着物の裾はあっという間に湿ってじっとりと重くなった。
こんなに晴れたのは久しぶりだ。ここしばらく、山は雨に包まれていた。
川に踏み出せば、濡れた岩が足の下でつるりと滑る。点々と頭を出している岩を用心深くたどって対岸に渡った。
ここに来れば、少しは気が凪ぐかと思ったのに。望美はもう一度ちらりと空を見てから、近くの岩に腰を下ろした。足元からひんやりと冷気がのぼってくる。
肩から力が抜けた。
今日は、誰とも会いたくない。
熊野が嫌いなんじゃない。いつも人に囲まれる生活は、京に来て以来ずっとそうだったし、今ではもうすっかり慣れた。緑の濃さも海の匂いも気に入っている。周りの人は皆親切にしてくれるし、食べるものが口に合わないというようなこともない。
それでも、ヒノエがいないとどこか落ち着かない。
ヒノエが京に上ってから、もう一月近くが過ぎようとしていた。元の時代とは違う。どこへ行くにも戻るにも時間がかかるのはわかっている。けれど、予定を過ぎるにしたがって、少しずつ心が波立ち始めるを抑えられない。
無事でないはずはない。
ヒノエの予定が延びるには、きっと延びる理由があるからだというのはわかっている。多少の不在はなんとかできるように事前に手を打ってあるだろうし、義父はからかいがてらちょくちょく顔を見せてくれる。それに万が一何かあれば、たちまちここに知れるはずだ。だから、そういう意味では心配してはいないのだけれど。
ヒノエの活気が館全体を元気づけでもしているかのように、不在の折にはどうも皆が静かでいたたまれない。普段と変わらず忙しく立ち働いているにも関わらず、どこかしおらしげな気配がある。
望美自身、夜半のまどろみの中で肌が寂しいようになり、一度そうなるともうよく眠れもしない。けれど、侍女たちに「お寂しいでしょう」と訳知り顔に慰められるのも煩わしかった。
視界の端でちらちらと瀬が光った。水際の涼しさがしいんと染みて心地よい。大きく息を吸えば、湿った緑の匂いが体の隅々まで満ちる気がする。
「ヒノエ君……」
声に出してつぶやく。近くの茂みからつい、と鳥が逃げた。
身じろぎに袂の中がかすかに鳴った。望美は袂を探り、柔らかい手触りを探り当てて取り出した。都びた紫苑色の薄様に包まれた文は、昨日届いたものだ。
ヒノエから文をもらうことはあまり多くないが、それを筆不精と言うのは当たらない。一時のことを思えば、長く熊野を空けることは少なくなりはしたものの、熊野にいるときですら毎日会えるとは限らない。けれど、文を遣る暇があるくらいなら一刻も早く顔を見に帰るから、と彼は言う。
望美も日がな一日遊んでいるわけでもない。覚えなくてはならないこと、しなくてはならないこともたくさんあり、気がつけば日が傾いていることも多い。毎日があわただしく、のんびりと文を遣り取りする余裕などなかなか見つからないのは双方ともに、のことだった。
それでも、いざこうやって気取りのないヒノエの筆跡を目にすれば単純に嬉しかった。届いてから何度も開いたり閉じたりしたせいで、折り目にひかれた墨が薄くかすれてしまうくらいには。
ただ一つ問題があった。
今までは読める者に代わりに読んでもらっていたのだが、今回は手紙を持参した者から、「お一人で読まれるようにとのことです」と伝えられたのだ。手習いも日課になっているし、確かに少しずつなら読めるようになってきてはいるものの、すらすらとまではまだいかない。
ヒノエもそれを知っているだろうに。それなのに一人で読まないといけないなんて、どんな理由があるのだろうか。よほど内密の用件かそれとも、と小さな期待を抱いて、早速自室に引き上げておぼつかなくも読み始めれば、その推量はあっさりと外れた。
とりあえず半分まで読んだところでは、急ぎでもなくさして大切とも思えない、内向きの用件がいくらか書いてあるきりだ。これなら誰に読んでもらってもよさそうなものなのに。
「まさか、文字のテストなのかな?」
それ以上読むには暗くなりすぎていたし、あいにく月もなかった。灯りをつけてまで続きを読む必要はないだろうと判断してやすんだものの、夜更けに目が覚めれば、やはり続きが気になった。かといって今更灯を持ってきてもらうのははばかられる。
結局、読めないままじれじれするうち朝になった。それでも一応ヒノエから頼まれた用件を館の者に手配してから、望美は行くあてのない足で逃げるようにここに来たのだった。
紙についたしわをそっと撫でる。昨日読んだ一枚目にざっと目を通して二枚目に目を落とした。
字を追うにつれ、思わず微笑んでしまっていた。一枚目とは趣の違う柔らかい言葉で、京にいる知人の近況などを知らせてくれている。皆、忙しくも元気そうだ。ヒノエが帰ってきたら改めて詳しく聞けることだけれど、懐かしさにふわりと心が甘くなった。
夢中で読んで、気がつけばもう残りもさほどはない。帰るという先触れは今日もなかった。
読み終えてしまうのが急に惜しく思えて、望美は手の中で文を一度たたんだ。けれど、楽しい文の続きを知りたいとの誘惑には耐え切れない。それに、こんな小さなことで物惜しみしている自分の姿も可笑しかった。
もう一度、今度はそっと伺うように広げて先を読み進める。
息が止まった。
「帰ったら」と一呼吸おいて、そこにあったのは。
あまりに直截であまりに艶めかしい、愛の、そして欲望の言葉。
耳許で直接囁かれたように、背筋が震えた。
たまらずに目を閉じる。体を抱きしめた指先が冷たくなり、手にした文が熱をもちだしたように感じる。
恋しい。
ヒノエに会いたかった。
締めつけられるように胸が痛む。腕を解き、深く呼吸してこみ上げてくる涙と痛みを逃がそうとしたが、鈍い痛みはなかなか去ろうとはしない。
(……ひどい人)
どこまでわかってやっているのか知らないが、紛らわせていた寂しさを不意に目の前につきつけられた気がした。
そのとき、体が不意に浮いた。
後ろからすくいあげるように抱きしめられる。一瞬緊張で体がこわばった。
「ただいま」
髪に顔を埋めたまま囁かれて、その力が抜けた。抱きしめる手に手を重ねる。
「おかえりなさい」
震える声をなんとか収めて、たったこれだけのことで崩れそうになる膝を支えようとした。
しかし、崩れるのも待たずくるりと腕の中で回され、脇の下に手を入れて持ち上げられる。優しい目でのぞきこまれ、どんな顔をしていいのかわからなくなった。きっと、さっきの余韻でひどい表情を見せてしまっている。
ヒノエはそれに気づかないふうに笑って、腕をゆるめた。腕の中に下ろした望美に軽くくちづける。
「急いで帰ってみれば、館にも近くにも見あたらない。最後まで気を抜かせてくれないね、オレの姫君は」
余裕のある言葉の裏に、せっぱつまった何かが見えた。
「いつ帰ったの?」
望美もそれを見ないようにして尋ねた。
「ついさっき」
「でも、今日帰るって」
「ゆうべ遅くには伝えたはずなんだけどね」
気に入らないな、とヒノエは一瞬不快そうな顔をした。
「ま、それは後にするとして」
気を取り直したように腕に力をこめる。
「今、一番急ぐのは望美とこうすることだから」
ヒノエは望美の胸の前で握り締められ、くしゃくしゃになった文に目をやった。そっと指先で取り上げて、眉を上げる。
「もしかして、まだ読んでない?」
「……読んだよ」
知らず、頬に血が上った。
「用件は全部みんなにお願いしておいたよ。けど、今日帰るつもりだったらどうして」
一枚目はいらなかったんじゃないの、と照れ隠しのつもりで問えば、不要ではない、と首を振る。
「全部オレが指図すればいいかもしれないし、女房達だって放っておいてもきちんとやるのはわかってるけどね」
「じゃあ」
「でも、望美の口から指図されることに、皆もそろそろ慣れたほうがいいんじゃないかと思ってね」
でないと、オレの姫君は自分でできないことまで頑張って手を出して飛んでいってしまうからね、とヒノエは笑った。
実際、望美は使用人に指示するのが苦手だった。どうしてもお願いする、といったようになってしまう。小さな用件なら、自分で済ませてしまったほうが気が楽でもある。
「またいつ忙しくなるかもしれないからね」
「それって、京へ行ったことと関係あるの?」
「さあ、どうだろうね」
とはぐらかして、ヒノエは頬を寄せてきた。
「で、二枚目しかいらない、ってことは」
甘く低い声がゆっくりと頬を這う。胸を手のひらで柔らかく包まれ、体がかっと熱くなった。
「さぞいいお返事をいただけるんだろうね?」
触れるほど近くで問いかけられる。
目の前の唇が、自分を待っている。
視線をそらそうとすれば、たちまち熱い瞳に捕らえられた。
「意地っ張り」
笑いながらささやいて、けれど性急に唇を重ねたヒノエへの返事のかわりは、胸にきつく立てられた望美の爪だった。