始発まであと15分。
ほのかに白み始めた時間の駅は、さっきやっとシャッターが上がったばかりだ。
線路の先は、青いもやの中にぼんやりとかすんでいる。蝉が時折寝ぼけたように一声、ジィッと鳴く。つられたように他の蝉も声を立てるが、それも長くは続かない。
風がない。今日も暑くなりそうだ。望美はベンチから立ち上がった。こうやってじっと座っていると気だるさばかりが際立つような気がする。
「まだ来ないぞ」
時刻表を見上げていると、後ろから少しかすれた声がかかった。
「うん、見てただけ」
将臣はベンチに座り、腕を組んで目を閉じている。さっきまで気がつかなかったが、彼も少し疲れているようだ。
昨日はクラスの友人たちと花火をした。
その後、まっすぐ帰るには名残惜しくて、つい話し込んで終電を逃してしまった。初めは時間を気にしていたけれど、もうすぐ休みも終わってしまうし、今日くらいはいいかな、と開き直った。それでも夜が更ける前に家には電話したものの、そのときの親との会話を思い出せば少し気が重かった。一晩中遊んだ疲れがずっしりと背中にのしかかっているのも、気分を重くするのに一役買っていそうだけれど。
ホームの柱にかけられた、広告入りの細い鏡の前に立ってみる。白いワンピースは小さな座り皺がよって、少しくすんで見える。顔色も同じようにくすんで、唇をこっそり舐めればもうリップの味もしない。見た目からしてくたびれた朝帰りらしくて情けない。
肘を上げて、腕に鼻を近づける。小さくすん、とかいでみれば、袖からはほんのりと汗っぽい匂いと、淡い火薬の匂いがした。途中でシートなんかも使っていたけれど、この季節に昨日から着たままなのだから不快なのは今はどうしようもない。
それでも将臣に近づくのはやっぱりはばかられて、望美はベンチの反対側の端にそっと腰を下ろした。
駅の広告を見るともなく見ているうちに、向かいのホームには少しずつ人が増えて来る。住宅街に向かうこちら側はそれほど多くない。
向かいの人と目が合うわけでもないし、悪いことをしているわけでもない。でもなぜか恥ずかしくて俯いた。自分のサンダルと一緒に、将臣のスニーカーが視界の端に入る。
最近、将臣がよくわからない。
どこかが変わった。でも、それはどこがどう変わった、と言えるほどはっきりとした違和感ではない。けれどうすうす周囲も感じているようで、自分とつきあい始めたからだろう、と友人たちにはたまにからかわれているけれど。
ふとしたときに、知らない人を見るような気がすることさえある。
姿かたちは変わっていないけれど、表情が違う。きつい顔を見せることがなくなった。
斜に構えたところが少し角がとれて丸くなった。もともと何を考えているのか教えてくれるほうではなかったけれど、さらに口には出さなくなった気がする。
わかっている。あんな経験をすれば、変わらないでいられるわけはない。実際、帰ってきてからしばらくの間、将臣は何もしなかった。何もしなかった、というよりもできなかったのだと思う。生きるか死ぬか、明日のことどころか、今日を生き延びること、生き延びさせることに汲々としていたあの世界から戻れば、今の生活にすぐに馴染めなくても仕方ない。
自分の知らない、将臣の過ごした時間。三年は決して短くない。
(好きなのに)
望美は、ベンチの端をぎゅっと握った。
どうしようもなかったことなのに、その時間が今さら怖い。そして、そういう目で見てしまうことを将臣に気づかれることも。
不意に将臣が立ち上がった。はっとして見上げれば、ぐい、と伸びをした将臣がこちらを振り向くのと目が合った。
「どうしたの?」
「……電車」
確かに、耳をすますと電車の近づく音がするようだ。
「ほんとだ」
まもなくアナウンスも入った。風を連れて、始発電車がホームにやってくる。制動がかかって、ゆるゆるとスピードが落ちる。がくん、と止まった車両に歩み寄ると、タイミングよくぷしゅっとドアが開いた。
踏み込めば、いつもの電車とは違う匂いがする。人の匂いがまだ薄い代わりに物の匂いが強い。空気もまだうまく混ざりきっていないのか、足元がひんやり寒い。
この車両には、自分たち以外は乗ってこなかった。将臣は、さっさとシートの端に腰を下ろしてさっきと同じように目を閉じる。少し迷ったが、空っぽの車両で通路を挟んで座るのも、七人掛けのシートの端まで行くのもおかしい気がして、結局二人分開けて座る。
二つ駅を過ぎる頃には冷房が効きはじめた。外の暑さに慣れた肌が少しざわざわする。羽織るものもなく、体を軽く抱くようにしてみたけれど、我慢しきれずにぶるっと震えてしまった。
「寒いのか?」
「うん、ちょっとね」
声に出すと、余計に寒いような気がする。
「でも、大丈夫だよ」
「顔、青くなってるぞ」
「ほんと?」
頬に触れてみる。確かにそこも少し冷たくなってしまっていた。
「こっち来い」
ほら、と横を叩かれる。それでもためらっていると、
「なんでさっきからそんなに離れてるんだ」
「……だって汗かいちゃってるし」
「はぁ? なんだそれ」
将臣は呆れた顔をしてこちらを見た。
「あのときのこと、考えてみろよ」
あのとき、とは京でのことだろう。確かに毎日お風呂にゆっくり浸かるどころじゃなかった。行水はよくしたけれど、今よりももっともっと動いていた。
「あんまり思い出したくないかも…」
「おまけに、うちなんか野郎ばっかりだったんだぞ」
「こっちみたいなお風呂もなかったもんね」
「ま、それどころじゃなかったけどな」
向こうにいたときは多少は平気だった。でもそのときと今は違う。特にこういう話をした後だし、とためらいが解けないまま、動けない。
「いいから、こっち来い」
腕をとられて強引に引き寄せられた。気配が近くなる。それだけでふんわりと暖かくなった。
「……臭くない?」
「俺も同じだからわかんねえよ」
窓の外、建物の端からさぁっと朝日が射した。みるみる伸びていく光に、町並みがたちまちくっきりと明るく際立っていく。一晩起きていた目には、強すぎて苦しいほど。
将臣にもたれかかると袖ごしに柔らかい体温が伝わってきた。
「疲れてんだろ、ここに皺よってんぞ」
将臣が、自分の眉間を指差してつんとつついた。
「駅でもぼーっとしてたろ?」
「疲れてるってより、帰ったら怒られるだろうなって」
本当はそんなことを考えていたのではないが、将臣自身にもどうしようもない話を本人に言うつもりはなかった。
「だろうな」
「うん」
「お前のとこは一人だしな。女だし」
「いいな、男の子って」
「まあな。得も損もある」
しょうがない、とくく、と笑う。
「将臣くんは怒られなかった?」
「譲が出たからな。かわりに『ちゃんと送って来てください』」って言われたけどな」
「だから昨日残ってたの?」
将臣は、そんなに楽しんでいるようには見えなかった。もしかして、自分が帰ると言えば将臣はさっさと帰っていたのかもしれない。
「いや」
将臣は話を打ち切りたそうに首を振った。
「寝てろ。着いたら起こしてやるから」
まだ訊ねたいこともあったけれど、頬にかかる息に自然に目が閉じる。
頬をかすめるキスの後、包むように腕を回されてすっと力が抜けた。
言葉足らずで少し強引だけど、優しいひと。
──こういうところは、ほんとに変わらない。
ふと思ってしまってから気がついた。
大丈夫。
わからなくてもいいじゃない。
こうして心が安らぐのに、甘えてしまっても大丈夫だと思えるのに。
無いものを探して怖がるより、今ここにあるものを私は知っている。
そう思えば、いろいろ考えてしまっていたことが少し楽になった。
体を預けてさらに増した暖かさに、瞼が重くなる。規則的な振動がさらに眠気を誘った。
結局、二人とも寝過ごしてしまい、将臣に揺り起こされたのは、すっかり明るくなって終点に着いた頃だった。
帰りは遅くなってしまったけれど、別にそんなことはかまわなかった。
寄り添って眠った時間は、とても幸せなものだったから。