眠れない。
眠らなくてはいけないのに、眠くならない。
望美は夜着の中でひとつ溜息をついた。
御簾の隙間からさやかに差し込む月の光すら、眠りが寄りつく邪魔をする。望美は、部屋の奥の暗がりに向かって逃げるように寝返りをうった。
今日も一日、京を歩き回って疲れているはずなのに、眠ろうとすればするほど冴えていく。
転々と無駄な寝返りを繰り返した後、望美は夜着をはいで起き上がった。
御簾を押し上げて、庭に出る。
京邸の庭は、熱を持たない光に満ちて息苦しいほど白い。
白砂に踏み出す。夜気を吸い込んで重いそれがきし、と鳴った。その音すら響くような静けさを壊したくなくて、望美は息を忍ばせて歩みだした。
盛りをとうに終えた藤の棚からは緑の香りがつん、と降りてくる。それにつられたように近づけば、庭にひき入れられた水の流れる音がかすかに聞こえた。
藤棚の影になっている岩に行儀悪く腰を下ろし、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込む。夜の空気が体に染みるような気がする。
(別に、朝までここにいてもいいな)
そんなことは無理なのはわかっているけれど、ふとそう思った。ここなら、眠れなくても休めそうだ。
座ったまま岩をずるずると滑って、砂の上に膝を抱えて座った。汚れてしまうかな、とほんの少し後ろめたさがよぎったが、今日はいいや、と思い直す。岩にもたれかかって空を仰げば、悲しくもないのに鼻の奥がつん、と痛んだ。
(ちょっと、疲れちゃったなぁ)
毎日は恐ろしいほどの勢いで過ぎていく。状況を考えれば弱音を吐いていい場合じゃないのはわかっているし、別に辛いとも思っていない。
膝に額をおしつける。泣きたくないのに、このままだと涙がこぼれてしまう。
「神子?」
呼ばれたのは、どれくらい経った頃だろうか。そろそろ部屋に戻ろうかと思いかけた頃あいだった。
もう目は乾いている。涙はこみ上げたときと同じく、勝手にひいていた。
「はい」
返事をしてから、呼ばれるがままに返事をしてしまったことがなんだか間が抜けて思えて可笑しくなる。
「敦盛さん」
見上げれば、敦盛が少し怪訝そうに立っていた。
「驚かせてしまったか……すまない」
「大丈夫ですよ」
腫れているだろうまぶたを、手の甲でこっそりこすってから笑ってみせたが、敦盛の表情は変わらなかった。
「こんなことを聞いていいのかわからないが……こんな夜分に、あなたは」
踏み込むことをためらうように遠慮がちに問うてくる。この人はこういうときでも外に出ている自分を叱ったりはしない。さぞかしひどい顔をしてるだろうに、そのことにも触れてはこない。
「ちょっと、外に出たくて」
「……眠れないのか?」
もしかしたら、もっと前から見られていたのかもしれない。
「そうですね、明るすぎるからかも」
「そうか」
敦盛はそのまま、隣に座るでもなく立ち去るでもなくそこにいた。ほんの少しだけ、気が詰まる。かといって、まだ動く気にはなれなかった。
鳥の声がひとつ、鋭く空を渡った。不意に静寂が破れて、息が楽になった。
ちゃり、と鎖が鳴る。
「私は平気だが、神子は遅くなれば明日がつらいだろう。部屋まで送る」
「……はい」
そっと伸べられた手にすがって立ち上がった。すぐに離れた手が、寂しかった。
「こう山が近いと、朝晩はやっぱり冷えるわね」
宿の縁先に出た朔が、肩越しに言った。
「そうだね、ちょっと冷えるかも」
望美は、板間に行儀悪く足を投げ出したまま応えた。
部屋に吹き込むゆるい山風にもどこか冷たい芯があるようで肌が寒い。
「でも、もったいないわ。こんなにいいお天気なのにこんなところで」
「仕方ないよ。それにお休みだと思えば嬉しくない?」
向き直った朔はしかめていた眉を緩めて、ふっと笑った。
「まぁ、それはそうだけれど……」
昨日、皆で京の外れまで来たところに九郎に宛てた伝令が追いついてきた。京で何やらもめごとが起きたらしく、文ではどうにも埒が明かない、と迷う顔をした九郎に、望美はすぐに引き返すよう言った。一瞬ためらった九郎だったが、重ねて勧めればやはり気になるのだろう、しぶしぶ頷いた。
すぐに戻れるというし、京邸に戻るまでもあるまい、と九郎たちが戻ってくるまで望美たちはここで足止めされることになった。二手に別れて進んでもよかったが、行きはぐれてしまってもかえって後が面倒だ。
九郎と弁慶、景時は早速京へ戻り、ヒノエとリズヴァーンもどこへ行ったのか今朝から見当たらない。
一夜明けて、黒ずむほど青い初夏の空は、外へおいでよと望美に誘いかけてくるけれど、これといって行くあてもない。
後ろにぱたりと倒れこんで、手足を伸ばす。
──そういえば。
前にこのあたりに来たときには、弁慶と山に水を飲みに行ったっけ、とふと思い出した。
山肌からふくふくと湧き出る水は、唇がしびれるほど冷たいのに柔らかく甘く、いくら飲んでも飲み飽きなかった。
そのことを朔に告げれば、
「じゃあ、今日はそこに行ってきたらどう?」
とこともなげな返事が返って来る。
「え? だって九郎さんたち、すぐに戻るって言ってたし。私がいなかったら……」
「今日あの人たちが戻ってきても、多分急には動けないと思うわ。今着いても出立は昼からになるでしょうし」
「でも……」
皆忙しそうにしているのに、自分だけが遊びに行くのはなんだか申し訳ない。
「そうね、一人で出かけるのは良くないと思うの。一緒に行ければ良いのだけれど、少しすることがあるし……」
言いかけた言葉を取り違えた朔は、思案げに首を傾げる。
「なら手伝おっか?」
「大丈夫よ。それでなくても、最近望美は頑張りすぎなんだから」
だから、行ってらっしゃい、ね? と朔は微笑んだ。
かといって、土地勘が薄いところで一人外出するのはやはりあまり良くないだろう。
「……譲くんと白龍、どこ行っちゃったんだろう」
近くにいて、しかも迷惑にならなさそうなのは譲と白龍くらいなのに、宿を一回りしても見当たらない。狭い宿のこと、いるはずのところにいなければもうそれ以上探すあてもない。
ためらっていたくせに、いざ出かけられないとなるとなんだかすっかりあてが外れてしまって、少し寂しい。
「……みんな出かけてるみたい」
とぼとぼと部屋に戻ると、朔は気の毒そうな顔をした。
「私でよければ一緒に行こうかしら?」
そう言う朔の膝には、直しかけの服がある。
「ううん、朔にはやることがあるんでしょう? やっぱり手伝うよ」
針仕事はまったく得意ではないけれど、まさか何もせずに見ているわけにはいかない。
「いいのよ、望美は……」
朔が言いかけた時、開けたままの戸の前をすい、と人影が通った。
「敦盛殿!」
朔の呼びかけに立ち止まった敦盛が引き返してくる。
「望美のお供をお願いできないかしら?」
「……神子の?」
深い色の瞳が物問いたげにこちらを見る。
「別に用があるってわけじゃないんですけど。一緒に山の方に出かけてくれませんか?」
あまり気乗りがしないのだろうか、敦盛は少し間をおいて、ぽつりと聞いてきた。
「私で、良いのか?」
「お願いします」
わがままを通すようで少し気がひけたが、望美は思い切って頭を下げた。
湧き水へ向かう道は、思ったよりも険しかった。
踏み分け道はあれども、元の時代のようにきちんと整備されてなどいない。水をじっとり含んだ山道はひどくぬかるみ、気を抜けば横の川に滑り落ちてしまいそうだ。
前もずいぶん息を切らせたっけ、と望美は額ににじむ汗を手の甲でぬぐった。
別に道が変わったわけじゃない。辛かったことは忘れていただけだ。
高い段差を上りあぐねていると、上からすっと手を差し出され、ぐい、とあっけなく引き上げられた。
見た目よりずっと力強い腕にどきりとする。
「大丈夫か?」
「……ありがとう、大丈夫です」
そう答えたものの、すっかり上がってしまっている息はごまかせなかったらしい。敦盛は、少し休むか、と道の先にある岩を示した。
岩に腰を下ろして、ひとつ息をついた。
深くはない森の中、切りこむようにさす木漏れ日が敦盛の衣に斑を描く。草の上では蝶が羽をかすかに動かしながら休んでいる。
喉の奥がかすかに苦い。息を整えながら見渡せば、さっきまで見る余裕のなかった景色が目に飛び込んできた。
「ここにはまだ、藤があるんですね」
木々の間からちらりと見えるのは、藤の花だった。いくら盛りを過ぎているとはいえ、もう初夏だというのに。
「こちらは、山の裏になるからかもしれないな」
邸のものと比べれば花房がやや短く、色も浅いような気がする。これも日陰で育ったせいなのだろうか。
「……なんだか、違う花みたい」
呟けば、
「違うといえば、違う」
思いがけない答えが返ってきた。
「え?」
「これは、山の藤だ」
違うような気がすると言ったのは自分なのに、そう言われてもどこがどう違うのかよくわからない。
「山の藤?」
尋ねると、
「幹を見るといい」
支えに巻きつく向きが違う、と指差されても、そもそも藤の巻きつく方向を覚えていない。
そうですか、と曖昧に頷いたっきり会話も途切れ、それを潮に二人は腰を上げた。
川にそってゆるやかに上っていく。
ひとつ角を曲がったとたん、それは視界に飛び込んできた。
「……すごい」
望美は息を呑んだ。
対岸に、藤が咲いていた。
先ほどのものとは違って、優雅に長い藤の花が川の上に滝のように雪崩れる。
日の当たる高みにこそもう花はなかったが、川に触れるほど低いところまで花房が連なっている。
さすがに盛りというほどではなくて、あちこちが散り透いている。それでも濃く薄く藤紫の花房がもつれ咲き、風が来るごとに川面にはらはらと花が落ちて流れる。
「綺麗……」
ため息まじりに呟けば、敦盛もああ、と頷いた。
「一本の木、なのかな? そうだとしたらすごく大きな木ですね」
「藤は齢の長いものと聞くが……」
「この木だと何歳くらいなのかなぁ」
「さあ…どうだろう…だが」
敦盛が目を伏せた。川筋に風が通り、重くて粘い藤の香りを吹きあげてくる。
「藤は、一人で立てる木ではない。庭なら棚にも組むが、野では近くの木にすがらなければあそこまでは育てない」
花の香が急に膨らんで、息苦しくなった。
「千年の齢も、めでたく見るものでは……命があったからといって……いや」
敦盛はそこで唐突に言葉を切った。うつむいたまま、流れるとも見えない川の面を眺めている。
もう一度、花のない梢を見上げる。さっき見た、木肌に食い込んだ山藤の幹を思い出した。
また何か悲しいことを考えているんだな、と思った。隣にいるのに遠ざかる気配に手を伸ばす。
ためらいがちに避けようとする手を捕えて、ぎゅっと握る。敦盛は振り払おうとはしなかった。
「敦盛さん」
敦盛の手の冷たさが、つないだ手のひらから伝わってくる。
胸に湧いた思いを伝える言葉が浮かばないまま、ただ呼びかけた。
「……もう、行きましょう」
望美は、ゆっくりと顔を上げた敦盛の手を強く引いた。