「ののちゃん、先輩見なかった?」
私は廊下の向こうからやってきたののちゃんに声をかけた。
「ううん。でもどしたの? そんなに急いじゃって」
ののちゃんは首をかしげた。
「うん、ちょっと」
私は言葉を濁した。
「急な用事があって」
「ふうん。恋人どうしの急ぎの用事ってなんでしょうね〜?」
「……つまらないこと、だよ」
そう。つまらないことなのだ。でも。
「ありがとう」
私はきびすを返した。
春。
理人先輩は御符汰学園に戻ってきてくれた。
待っていたし、戻ってきてくれたことはもちろん嬉しかった。
三年で他の学校に編入するなんて、けっこう大変なことのはずだと思う。でも、先輩は相変らず何事も軽々とこなしている、ように見える。
フェンシング部はまだないから部長じゃない。でも、また生徒会の会長にもなったし、新しくできた男子寮の寮長さんもしているし、現実でも多忙な日々は変わらない。
だから、あまり長い時間二人でいることはできないのは、私ももうあきらめていた。心配はしているけれど、先輩は「ミフターフで王子をしなくて良い分、ましになってるんだよ」と笑うばかりで、私の言うことなんてまるで聞いてくれない。
「いつだってそう」
私は大急ぎで廊下を歩きながら、唇をかんだ。
先輩はいつだって、なんでも秘密にしてしまう。私に関係のあることでさえ。
「先輩!」
案の定、先輩は時計塔の屋根裏にいた。
駆け込んできた私を見るなり、カウチに寝転んでいた先輩は花が咲くように笑った。それこそもう、ぱあっと音がしそうなほどの笑顔で。
まるで罪のなさそうな顔に、一瞬ほだされそうになる。
だめだめ、と私は気を引き締めて、先輩の前に立った。
「どうしたの? そんな怖い顔をしても可愛いけど」
いきなり出ばなをくじかれた。
「可愛くないです」
「いや、俺には最高に可愛いよ」
「そんなことを話しに来たんじゃありません!」
「じゃあ、どんなこと?」
笑みを残したまま、先輩が座り直した。カウチの空いた場所をぽん、と叩いて私を呼ぶ。
「あれ? どうしたの?」
座らない私に、先輩は意外そうな顔をした。
「……怒ってるんです」
「ふうん」
「先輩、うちのクラスの大田川君になにか言いませんでしたか?」
「大田川って、誰?」
先輩はそらっとぼけた。
「とぼけないでください。何かひどいことを言ったんでしょう?」
田川君は、私のクラスに入ってきた編入生だった。人懐こくて、あまり男の人っぽくない彼は、私には話しやすい人だった。けれど、最近私が話しかけてもまともに答えてくれない。ののちゃんや他の人には普通に話しているのに。
何か気に障るようなことでも言っただろうか。そんなふうに思っていたけれど、今日になってその原因がわかったのだ。
理人先輩が、何か言ったせいだって。
「どうしてそんなことするんですか?」
「してないって言ってるのに」
先輩は軽く肩をすくめた。
「俺ってそんなに信用ない?」
寂しそうな声は、きっとわざとだ。
「……」
私は無言のまま、先輩を見つめた。言葉で勝てる相手じゃないことを忘れていた。
「こういうことはなかなかやめられないものなんだね」
しばらく見つめあった後で、先輩はぽつりと言った。
「どうしてですか?」
もう一度尋ねてみた。
「わかってるくせに」
「わかってます。でも」
「うらやましかったから、かな」
先輩はかすかに視線を伏せた。
「うらやましい?」
「だって、彼のことを名前で呼んでただろう?」
「は?」
予想外の答えに、私はしばらくぽかんとしていた。
「だって、名字が少し呼びにくいし、みんなそう呼んで」
「嫌なんだ」
さりげなく言っているけれど、相変らずひどいことを言っていることには変わりない。
「じゃ、どうしたらいいんですか?」
少しいらいらしながら、私は尋ねた。
「ひとつやめてもらいたいことがあるんだ」
あまり良い予感がしない。
「何を、ですか?」
「『先輩』って呼ぶのを」
「だって先輩は先輩じゃ」
一応、年上なんだし、と言いかけた私に、違うよ、と首を横に振る。
「本当のことをいうなら、君のほうがこの学校の先輩なんだよ」
確かにそうだけれど、何かおかしいような気がする。
「じゃ、なんて呼べばいいんですか?」
「そうだね、君が考えて?」
「じゃあ……、西蓮寺さん?」
「悪くないね」
でも、理人先輩の目は笑っていない。まさか名前で呼ぶわけにもいかないし、必死で考えたのに。
「だめ、ですか?」
「だめじゃないよ。だめじゃないけど……」
ちょっと寂しいな、と理人先輩は軽く首を傾げた。
「絵麻みたいに呼んでみてくれる?」
そう言われて、私は硬直した。
理人、と絵麻先輩は言っていたはず。
「そんな」
顔に血が上る。
「たいしたことじゃないだろう? だって、彼だって名前で呼んでたじゃないか」
すねたような表情が、いつもの顔をよぎった。
「もう」
思わず手が出ていた。
先輩の髪はさらさらと手に優しい。ぽんぽん、と軽くたたくと、彼はくすぐったそうに私を見上げた。
「私は先輩が一番好きなのに、なかなか信じてもらえないんですね」
「……君のことは信じてるさ」
先輩は、私に腕を回した。
「ただ、俺がどこまでもよくばりなだけなんだ。君のなにもかもを独り占めしたいんだ」
正直な言葉はどこか幼くて、まるであの小さな王子様のようだった。
私は少し優しい気持ちになった。
彼の頬をそっと包んで、こちらを向かせる。
触れた顔が、いつもより少し熱かった。
「理人」
そっと呼ぶ。
「うん」
彼はうっとりと答えた。
「理人?」
ひきずりおろすように優しく座らされる。そのまま抱きしめられて、私は目を閉じた。