私たちがその宿を選んだ決め手は、内湯があることだった。
急な雨に降られて同じことを考えた旅人が多かったのだろう。宿の中は人が多くてにぎやかだった。
そうは言っても、女の旅人は少ない。
この宿でも今日は私のほかにはひとりだけ、と聞いていたので、ついつい長湯になってしまった。
きれいなお湯に浸かると、濡れて冷えた体もすっかり温まる。疲れもだるさも、お湯にするすると溶けてしまうようだ。
「おう」
女湯から出て部屋に向かう途中、廊下で左之助さんとすれ違った。
「どうしたんですか? お風呂はまだ……?」
一緒に部屋を出たはずなのに、左之助さんはまだ昼間と同じかっこうをしていた。
「ああ」
左之助さんは首を振った。
「行ってみたんだがな、誰か入ってたんで、一回戻って出直しだ」
「そうだったんですか……」
知らなかったこととはいえ、夫より先にお風呂に入ってしまった。
心苦しさにうなだれた私の頭を、左之助さんはぽんぽん、と手のひらで軽くたたいた。
「こんなことくらいで、そんな顔するこたねえだろ?」
「すみません」
その時、うつむく視界の外から低い咳払いが聞こえた。
飛び上がるようにして廊下の端による。そこにいた武士はちらりと左之助さんを見てから、ゆっくりと通り過ぎた。
その視線には、こちらを見下すような嫌な色がついていた。
そっと肩越しに振り返ってみる。背すじをまっすぐに伸ばした後ろ姿は、すぐに廊下の角を曲がって見えなくなった。
「なんだか、見られてましたね」
「あれは昼間に俺たちを追い抜いたやつだ」
「え?」
私は居もしない相手を確かめるように、もう一度夕焼けに染まる廊下を振り返った。
武士だったこと、それから急いでいたことまでは覚えていたが、顔までは覚えていない。
「なんだか、怖い顔でしたね」
「おおかた、俺がこんな別嬪といちゃついてるんでやっかんでんだろ。そんななりでいい気なもんだ、って」
軽い言葉だったけれど、左之助さんの目は口調を裏切って鋭かった。
私よりずっと敏い左之助さんがあの視線に気づかなかったわけがない。それでも左之助さんはそれ以上何も言おうとしなかった。
──左之助さんは我慢をしてくれているのだ。私のために。
永倉さんと別れてから、私たちはまっすぐにここまで来た。
短気な永倉さんの影に隠れてはいたけれど、けっして血の気の少ないほうじゃない。
なのに道中で喧嘩を売られるようなことがあっても、いつもさらりと流している。
「どれもこれも、って手を出してたんじゃ、江戸が遠くなるからな」
昨日、すれ違いざまに絡んできた相手を柔らかくいなした後で、左之助さんはそう言っていた。
正直、私たちがいつまでこうしていられるかなんてわからない。
もしかしたら江戸にだってたどり着けないかもしれない。
私のためだけに、ここまで心を尽くしてくれるこのひとに、私はどうやって報いることができるだろう。
「な、千鶴」
考え込んでいた私は、いきなり呼ばれて飛び上がりそうになった。
「すまねぇが、ここで二日ばかり泊まってもいいか? 会っておきたい人がこの近くにいるらしいんだが」
「はい」
「おまえはここでゆっくり骨休めしてりゃいいから」
うなずくと、左之助さんは嬉しそうにそうか、と言って
「じゃ、風呂に行って来る」
「いってらっしゃいませ」
私は左之助さんの後ろ姿を見送ってから、自分たちの部屋に向かった。
「そんなこと、別にかまわねえよ。おまえも疲れてるんだからもう休め」
寝る前に洗濯をしたい、と言い出した私に、左之助さんはあきれたように答えた。
「でも、明日はどなたかのところにお出かけなんでしょう?」
左之助さんは片肘をついて長々と寝そべっている。
「ああ」
私は左之助さんの服を小脇に抱えた。
退く気はまったくなかった。これは私の領分だし、左之助さんのために今何かできることといえば、これくらいしか思いつかない。
「妻がついているのに、こんな汚れたかっこうでお出かけいただくわけにはいきませんから」
言い募ると、意外にもあっさり許可が出た。
「……わかった。早く戻ってこいよ」
ほんとうに言い出したら聞かねぇんだからな、と左之助さんは小さく笑った。
「はい!」
私は勇んで部屋を出た。
外は、昼間の驟雨が嘘のような星月夜だった。
たらいを持って井戸端に立った私は、袖をたすきがけにした。夜気がひいやりと腕をなでる。
私は急いで井戸から水を汲み、水音を立てないように気をつけながら、たらいに水をあけた。
左之助さんがお風呂に入っている間に、このことを思いついて宿の人と話をつけた。
川端にたつこの宿では、ふだんは横を流れる川で洗濯をしているらしい。
でも、私が急ぎで洗い物をしたいと言うと、夜の川は危ないからと宿の庭にある井戸を使ってもいいと言ってくれた。干す場所も教えてもらい、明日の朝には火のしまで貸してくれることになっている。
親切そうな女将さんは自分が洗おうかとまで言ってくれたけれど、私はその申し出を断っていた。
左之助さんのためにできる、こんな小さなことを、他のひとに譲りたくなかった。
長身の左之助さんの着物は、上下分かれた洋装になってもかなり大きい。おまけに目の詰まった生地は厚みがあって、こうして水を吸うとますます重い。
それでも、私はどこか満ち足りた気持ちで、左之助さんの服と格闘していた。
全体に水を通して、汚れたところを月明かりで探しながら洗っていく。袖や裾はもう真っ黒になってしまっていて、何度も水を替えてやっと満足がいった。
夜目ではまだ洗い残しがあるかもしれないが、洗わないよりはましだろう。
なんだか気分が浮き立っている。そして私はそう感じたことに戸惑っていた。
洗濯なんてとてもありふれたことなのに。新撰組にいた頃も、それからの旅でも同じようにしていたことだったのに。
確かに乾いた血のはねが着物に散っていることも多かったあの頃と、ただの徒歩旅の今はまったく違うけれど。
左之助さんの役に立てたからでもない。
この、嬉しいような苦しいような気持ちが、幸せ、なのだろうか?
洗い終えた服を思わず胸に抱きしめてしまいそうになった私は、それ以上考えるのをやめて立ち上がった。
「そういうこと」を考えるのは、父様のことが終ってからにしよう。そう思った。
私はかがんでいた間にこわばった腰を伸ばした。
なんだかんだいっても、結局は一人分の服だ。それほど時間はかからない。
最後に使った水をそばの溝に空け、洗ったものをたらいに入れて、私は物干し竿に向かった。
竿に広げた洗濯物をしわを作らないよう、両手で気をつけて伸ばす。
しわはなるべく作らないほうがいい。
明日の朝、火のしを貸してもらえるけれど、洋装は細かい作りのせいで、火のしでぱりっとさせるのは難しいからだ。
最後にもう一度、ぱん、と裾を引っ張る。
これで明日、左之助さんは少し小奇麗なかっこうで出て行ける。
そんな思いで洗濯物を見上げた私は、あることに気づいた。
──ボタンがひとつ、なくなっていた。
一気に血の気がひく。
必死に記憶をたどった。洗う前は、確か全部そろっていたような気がする。
私は足元をあたふたと見回した。
もう一度見上げる。ボタンを留めていた糸が、ほつれたようになっているのが見えた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
どうして気づけなかったんだろう。
もし、見つけられなかったら?江戸や横浜ならば替えがあるかもしれないが、こんなところで手に入るわけもないし。だからといって縫い付けてしまえば脱ぎ着が不便だ。
どうしよう。
私はぐらぐらする頭を振った。
左之助さんはきっと許してくれるだろう。
でも、私は私が許せなかった。
浮かれた気持ちでいたからだ。そう思えてならなかった。
物干し竿の周りをぐるぐる歩き回った後、私は腹をくくった。
洗う前にはあったのだ。なら、きっと井戸端とここをつなぐ場所のどこかに落ちているに違いない。
探さなくては。朝までに。
井戸端に駆け戻った。井戸の周りを何度も巡り、たらいやおけの裏表を改め、もう一度物干し竿のところまで、今度はじっくり地面を見つめながら歩いた。
「千鶴!」
鋭い声が私を呼んだのは、それからどれくらい経った頃だろう。
私は、宿のそばを流れる堀川のそばに座りこんでいた。
ボタンはまだ見つかっていない。
何度も何度も同じところを歩き、使ったものを確かめた。探していないのは、使った水を捨てた溝につながるこの川だけだ。
石組みの中できらきらと月の光をはねかえしているくせに、堀川の底は暗くて見えない。
その深さと流れの速さに、私は呆然としていた。
「おい、千鶴?」
声が少し優しくなった。
近づいてくる声に、私は振り向けなかった。
「どうした?」
とうとう、私の脇に大きな気配がしゃがみこむ。
「って、おまえ、泣いてるのか?」
温かい手が背中に触れる。どうしようもなくなった私は両手で顔を覆った。
「ごめんなさい」
「どうした?」
我慢していたせいか、私はなかなか泣き止むことができなかった。
私の話を聞いた左之助さんは、
「なんだ、そんなことか」
と私の鼻を軽くつまんだ。
「そんなこと、って」
「考えてもみろよ。こんな夜中に出て行ったきりのてめえの嫁が、川っぱたで小さくなって座ってるんだぜ?」
ひやっとしたぞ、と左之助さんはつぶやいた。
「すみません」
急に闇が深くなった。見上げると、月は小さな雲の向こうにいた。
「いつもそうだよな。いつだっておまえはそうして、ひとりで突っ走っちまう」
そう言った左之助さんは、川のように暗い目をしてこっちを見た。表情の消えた視線に、私は固まった。
「なあ。そんなに俺は頼りないか?」
私はかろうじて首を振った。
「じゃあ」
「……何か、お返ししたかったんです」
なんとか声を絞り出す。
左之助さんにそんなふうに思わせたくなかった。
「今日も、その前もずっと、左之助さんは私のためにいろいろしてくれたじゃないですか。だからせめて」
「んなもん気にするな。俺が勝手に惚れた女に」
「なら、私もです。左之助さんに……好きなひとに何かしたくて」
「しょうがねえな」
雲が切れる。辺りがまた明るくなる。
それにつられたように、左之助さんの声からも影が消えた。
「な、おまえが失くしたボタンは失くなってないって言ったらどうする?」
左之助さんはさりげない口調で言った。
「え?」
「「俺が持ってるって言ったら?」
「左之助さんが?」
私の目の前で、大きな手がぱっと開いた。
小さなボタンが、月の光にふわりと輝いている。
「どうして……」
「風呂で脱ぐ前にぽろっととれちまったんだよ。で、後でおまえにつけてもらおうと思って、持ってた」
道理で見つからなかったはずだ。最初からついてなどいなかったのだから、落ちているはずもない。
思い切り脱力した私の背中を、左之助さんは笑いながらひとつたたいた。
「ひとりで抱え込む前に、俺に聞きに来い。こんな小さいことでもなんでも。恥ずかしがったり恐れ入ったりしなくていい。……他人じゃねえんだからよ」
手渡されたボタンの軽くて硬い感触を手のひらに感じながら、私はうなずいた。
部屋に戻ると、左之助さんはさっさと布団に入って目を閉じた。
私は夜中に駆け回ったせいか、それとも泣いたせいなのか、なんだか眠れるような気がしない。
しかたがないので、小さな行灯の灯りを頼りにこまごましたものを片づけたりしていると、
「今日はだいぶ疲れただろ? 明日やりゃいいんだから、おまえももう寝ろ」
目を閉じたまま、左之助さんが言った。
「はい。おやすみなさい」
私がそばでばたばたしていたので、眠りづらかっただろう。
すまない思いで手元を片付け、行灯の火を落とした。
自分の布団にもぐりこむ。
すぐに横から伸びてきた手に求められるままに片腕を布団の外に出すと、大きな手が私の手を捕まえて、きゅっと握った。
「ありがとな」
思いがけない言葉に、私は左之助さんのほうに寝返りをうった。
「さっきあんなに一生懸命探してたって聞いて、俺は情けねえ、と思った」
思わず引こうとした手を、左之助さんは逃がしてくれない。
「最後まで聞け」
「……はい」
「それから、おまえには悪いが嬉しいと思っちまった」
「嬉しい、ですか?」
「おまえがなんにでも頑張るやつだっていうのは知ってる。けどな、俺のことでそうやって必死になってるのが、嬉しかった」
ひでえ男だな、というささやきを私は否定した。
「違います。ひどくなんかないです。私だってそうだから」
私はもう片方の手も布団から出して、左之助さんの両手を包んだ。
「昼間もいろいろ助けてもらって、申しわけないと思っているのに、ほんとうは嬉しかったんです。服を洗っているときだって幸せでした。左之助さんに何かしてもらうのも嬉しいし、何かできるのも嬉しいんです。私もひどい女でしょうか?」
「……いや」
左之助さんの手にかすかに力が入るのが、手のひら越しに感じられた。
たこのできた、硬く荒れてざらざらしたその手を、私は愛しいと思った。
この手が私を守ってくれた。
この手が私を愛してくれた。
これからも、きっと──。
また少し、胸が苦しくなった。
ふと目を上げると、左之助さんは私のほうをじっと見ていた。
闇の中なのに、目が離せないほど強い視線に捕らえられる。
けれど私たちが見つめ合うだけでいられたのは、そんなに長い時間ではなかった。