注)アンジェリークが女王陛下になった後の話なのでマティアスはアンジェリークのことを「そなた」呼びしてない設定です。
「……これで、良いのでしょうか?」
マティアスが不安そうにたずねてくるのは、これで何度目になるだろう。
「大丈夫ですよ、マティアス様」
アンジェリークはマティアスを見上げて元気づけた。
昼下がりの聖都セレスティザムはうららかに晴れて、磨き上げられた窓からは眩しいほどの光がさしこんでいる。
「そうですね、きっと大丈夫でしょう。……あなたがいるのですから」
いつもまとっている静かな自信に満ちた態度はどこへやら、マティアスはあやふやに微笑んだ。
そんなマティアスに頼られている気分は、アンジェリークにとって悪いものではなかった。
二人がいるのは、聖都に設けられたアンジェリーク用の小さなキッチンだった。
久しぶりにすっぽり空いた、半日の休暇。
「二人でお菓子を作って、お茶にしませんか?」
アンジェリークの誘いに、マティアスは少し戸惑いながらうなずいたが、
「私は菓子を作ったことがないのです」
と、小声で告白したのは、キッチンに用意を整えてからだった。
手つきは多少ぎこちないけれど、問題はなさそうだ。
アンジェリークはほっとしていた。
初めてのお菓子作りは、楽しい思い出になったほうがいい。
「今日のマティアス様は、なんだか別の方みたいですね」
いつもまとっているローブもなく、髪もゆるやかに流すのではなくきっちりと束ねている。すっきりした首のラインは普段目にすることがないものだ。
「どこか、おかしいでしょうか? いつもの方が……?」
「いいえ、どちらもとても素敵です」
マティアスの口が開いて、閉じて、また開いた。
「……ありがとうございます」
マティアスはバターと砂糖の入ったボウルを抱えたまま、赤面した。
「もう十分混ざったようですし、そろそろ粉をいれましょうか」
手が止まったままの彼を促すと、
「あ、はい。そうですね」
マティアスは赤い顔のまま、慌てて次の工程に取り掛かった。
生地を休ませている間に、マティアスは使い終わった道具を手際よく片付けていく。
「初めてだなんて思えないですね」
洗い上げたボウルを拭きながら言うと、マティアスはそんなことはないと謙遜した。
「知っている」と「できる」はやはりまったく違います、とため息をもらす。
「ご存知だったんですか? クッキーの作り方」
「ええ」
驚いたことに、マティアスは一応クッキーの作り方だけは知っていたそうだ。確かに騎士団では一通り身の回りのことを習わせられると聞いていた。料理は実際に作ったりしたのだろうが、お菓子は「一通り」の範囲の外だったのだろう。結局のところ、やり方は知っているがやったことはない、らしい。
「ちゃんと焼けているでしょうか?」
オーブンの中に並んだ天板を、マティアスは不安そうにじっと見つめている。
「開けて確認しては?」
「開けないほうがいいと思いますよ」
「もし、失敗してしまったら」
「大丈夫です。ここまでできたんですから、きっと成功します」
「ですが」
アンジェリークはさらに言い募ろうとするマティアスの横に並び、一緒にオーブンをのぞきこんだ。
「ほら、いい匂いがするじゃないですか。後は焦がしたりしなければちゃんとできます。……それに」
アンジェリークはマティアスの腕に自分の腕をからませた。
「失敗したっていいんです」
ぎょっとしたようにマティアスがこちらを向いた。
「お菓子作りで失敗したことなんて何度もあります。どうしてそうなったのかわからない失敗も」
「そうなのですか?」
「はい」
マティアスが不安がる理由が、少しわかってきたような気がする。
「だけど、そういうときは諦めずにまた作りなおせばいいんです」
「また失敗するかもしれなくても?」
「そうです。できるまでやればいいんです。もしかしたらレシピが合わないのかもしれないし、オーブンのご機嫌が悪い時もあります。それにどうしてもできなかったら、しばらく放っておいて他の物を作ってみたりして気分転換してもいいかもしれませんね」
「……しかし」
「完璧に作らなければいけない、なんてことはないと思います。愛情をこめて作ればきっといつか、全員じゃなくても誰かがおいしいって思ってくれるものは出来るはずですよ」
マティアスは失敗を恐れているのだ、とアンジェリークは気づきはじめていた。
いつも完璧を求められて、それに応えてきた人だからかもしれない。それも生き方のひとつかもしれないけれど、ここまで不安そうな顔をするのだからマティアスにとってその生き方は幸福なものではないに違いない。
「クッキーを1回くらい上手に焼けなくても誰にも迷惑はかかりませんし、もしこれが失敗でも、二人で食べちゃえばいいじゃないですか」
マティアスの返事はない。言い過ぎてしまったかも、とアンジェリークは口をつぐんだ。
しかし、マティアスは何も言わずにオーブンの中に視線を戻したきり、こちらを見ようとしなかった。
「そろそろ、出しましょうか」
無言のまま過ぎた数分の後、焼き上がりの頃合になった。
オーブンを開けると、甘い匂いの濃度が一気に上がる。
小さな木や星、猫の顔に花。さまざまな形のクッキーが天板から外され、とりどり網の上に並べられた。
「おいしそうです」
アンジェリークは、角がほんの少し欠けた星を二つに割って、マティアスに差し出した。
口に入れるとまだほんのり温かいが、さくさくした口当たりが上手にできたことを示していた。
「成功ですね」
「はい。安心しました」
マティアスは微笑んでいた。
「やっと笑ってくれました」
つい口に出てしまった言葉に、マティアスの微笑が消えた。
「申しわけありません。私が臆病なばかりに……」
そんな、と返しかけてアンジェリークは唇を引き締めた。そう返しても二人のためになるとは思えない。マティアスは自分の前ですらさらにくつろげなくなるだろうし、自分だって内心びくびくする彼を見るのは嫌だった。
「そうですね」
思い切って口に出した言葉が思いのほかきつく聞こえて、アンジェリークは自分でもはっとした。でも、ここでやめるわけにはいかない。
「失敗できないこともたくさんあります。でも失敗したって大丈夫なこともたくさんあるんです。お菓子を作ろうってお誘いしたのは、二人で一緒に何かを作ったりして楽しくできたらいいな、って思ったからです。おいしいお菓子が食べたいだけなら、自分で作らなくてもあるんですから。だから二人でこういうことをしているときだけでも、怖がらないでください。もし何かうまくいかなくても、甘えたり頼ったり弱音を吐いたりしても、私はマティアス様を嫌いになったり呆れたりなんてしません。だから」
がしゃん、と何かが落ちた。
「わかっています」
声は耳のすぐそばから聞こえた。
アンジェリークの肩を両手で捕らえ、そのまま左肩に顔を伏せたマティアスは少しの間、何も言わなかった。
「あなたはいつもそうやって私を惑わせるのですね。あの時も、そして今も」
「マティアス様?」
「あなたは間違っていない。しかし、それは私には難しいことなのです」
私は弱い、とマティアスはかろうじて聞き取れるほどの小声でささやいた。
「一度でも崩れてしまえば、あなたのその気持ちにつけこみ堕落してしまうかもしれません」
「そうなったら、私がマティアス様を叱りますから」
アンジェリークはマティアスの頬に触れた。
「だから、お願いです。私を怖がらないでください」
待つ。
肩を押さえた手が重くなった。
「はい」
返事は短かったが、強く晴れていた。
「ほんとうに初めてだなんて思えないですね」
「ええ」
思いのほかたくさん焼けたクッキーを缶に納めながら、二人は微笑みあった。
「二人じゃ食べ切れませんし、ルネさんたちにも少しおすそ分けしましょうか」
「……へぇ、少しだけなんだ?」
後ろから聞こえた声に、アンジェリークはびくりとして振り返った。
「ルネ。ノックをせずに入ってはいけないと」
マティアスの小言を聞き流したルネは、網の上に残っていたクッキーをひとつ取り上げた。
「だって気になるじゃない。マティアスがお菓子を作るなんてさ」
ルネは猫の形をしたクッキーをしげしげ眺め、片耳を小さくかじった。
「執務室までいい匂いがするんだから気が散っちゃって仕事どころじゃないし、みんなも興味しんしんだし。でもさ、女王陛下と司祭長が作るお菓子なんだよ? 長老とかもったいながって食べないかもね」
あっという間に食べ終わったルネは、今度は星の形に手を伸ばした。
「それで、仕事を抜け出してきたのですか?」
「うん」
悪びれずに答えてから、ルネはもうひとつクッキーを手に取った。
「ルネ」
「馬に蹴られたくはないし、今からまたがんばってくるよ」
クッキーを持った手をひらひらと振る。
ごゆっくり、と閉まったドアを見て、マティアスはいつものため息をついた。
「ルネさんもお気に召したみたいですね」
「ああ、そのようですね」
「じゃあ、私たちもお茶にしませんか?」
マティアスはほっとしたようにほほ笑んだ。
「ええ、そういたしましょう」