◆◆◆王子様とお姫様はそれからも
「もういいんですか?」
「うん」
「ごちそうさま」
理人先輩がフォークを置いた。
先輩の前に置かれたお皿の中身は半分ほどしか減っていない。
「昨日夜中に少し食べたせいかな」
もともとあまり食べたい気分じゃなかったんだ、と先輩はお皿から私に視線を移した。
「ごめんね」
「謝るようなことじゃありません」
「君が食べさせてくれるなら、もう少し食べられそうなんだけどな」
先輩はからかうように言った。
「残すのはもったいないですけど……でも無理して食べたら、きっと体にはよくありませんよ」
きわどい誘いになんとか笑顔で返す。
お昼時のカフェは人でごった返しているのに、まさかそんな恥ずかしいことできっこない。
「そうだね」
理人先輩は軽く答えた。本気で言っていたわけじゃないみたいだ。
「残念だな」
ちぇ、と小さく肩をすくめられた。
──もしかしたらやっぱり本気だったのかもしれない。
「でも、食べたくないのにどうしてわざわざお昼に誘ってくださったんですか?」
ともかく不穏な話題から離れたくて、私は言葉を探した。
「君を独り占めできる貴重な時間だと思ったから、じゃだめかな?」
理人先輩は目に笑みを浮かべたいつもの表情を崩さない。
「あの……」
「君が心配してくれるのは嬉しいけれど、さっき言ったように俺は大丈夫だから」
理人先輩のことはもちろん好きだけど、こういう会話にはまだ慣れない。
こうして話していると、甘い言葉にはぐらかされるようにして、どんどん理人先輩のペースに巻き込まれる。そして、話の本題が見えなくなってしまうのだ。
「そうですか」
私はうつむいて、とりあえず目の前の皿に集中しようとした。
「良かったの? いくらでも待っててあげたのに」
隣を歩く先輩に、私もあいまいに笑って答えた。
「私もなんだかおなかいっぱいで」
嘘だった。
あの後すぐに、私も食事をあきらめていた。
人に見られながら、しかも好きな相手に穴のあくほど見つめられながら平気で食事ができるほど、私の神経は太くない。
うながされるまま芝生に置かれたベンチに二人で腰掛ける。気持ち良いお天気だからだろう、芝生でお弁当を広げている生徒があちこちに見えた。
「毎日あっという間だな」
理人先輩がぽつりとつぶやいた。
「先輩はもうすっかりここになじんじゃいましたね」
「一応三年通っていたわけだから」
私にだけ聞こえるように、先輩は声をひそめた。
実際は、先輩が御符汰学園に戻ってきて──正確には編入してきて──まだ一月も経っていない。
なのに先輩は早くも新しくできた男子寮の寮長になっていた。きっと先輩は、人が上に立たせたい、と思うような人なんだろう。
「建物とか、ほとんどそのまんまですもんね」
「人は少し入れ替わってるけど」
「大丈夫ですか?」
「そうだね、前よりは少しのんびりできているから。生徒会もないし、部活もないし」
先輩はいきなり私の手を取った。
「こうして君と一緒にいられるし、ね」
そう、私たちは一緒にいる。いろいろなことを乗り越えて。
前からそうだったけれど、先輩はとってもやきもちやきで──でも、そうされるのにも慣れてきた。慣れてきただけで恥ずかしいことには変わりないけれど。
「なんだかもったいない気もします」
「何が?」
「生徒会長の先輩も、フェンシングをする先輩も素敵だったな、って思って……」
あの時、森から現れた影から私を救ってくれた先輩は、本当にかっこよかったのに。
「先輩は前の学校でもきっとフェンシングとかしてたんでしょう? ここに来て、三年生だからって新しく部活にも入ってないですし」
「もったいない、なんておかしなことを言わないでくれないか」
少しだけ先輩の雰囲気が変わった。
「俺は自分で決めてここに来た。他のことはどこでだってできるけど、今の君と一緒にいられるのはここだけだから。そのことは後悔していないし、これからもきっとしないだろうね」
「ごめんなさい」
「ああ、謝らないで。怒ってなんかないよ」
つないだ手に優しく力がこもる。なだめるように、慰めるように。
「ただ俺は君に、もったいないことなんて何もないって、わかって欲しかっただけだから」
「……わかりました」
答えながらも、なぜか私の気持ちは晴れなかった。
理人先輩の様子が少しおかしい。
そう思い始めたのはつい最近のことだった。
私たちはいつものように昼食後、校庭のベンチに並んで座っていた。
私は横にいる先輩の顔をそっと見上げた。やっぱり思い過ごしじゃない、と思う。
「先輩、少し痩せましたか?」
「え?」
聞き返されてから、私は自分の言葉のぶしつけさに気づいた。
「あ、ごめんなさい」
「痩せた? 俺が?」
先輩はすこしだけ眉をひそめた。
「どうだろう。最近きちんと体重を量ってないからよくわからないな。自分ではそんなに減った感じはしないけどね」
シルエットが、夢の中よりも少しほっそりしているような気がする。
「最近あんまり食べてないでしょう?」
お昼を一緒に取るようになってわかったことだったが、理人先輩は驚くほど食が細い。どうやってこの長身を維持しているのか心配するくらいに。
「そんなこともないよ。もともと好き嫌いがあるほうだから、以前と変わらない、かな」
「だって私がお弁当作った時は、あんなに」
「あれはどれもおいしかったから」
「じゃあ、今度からお昼は私が作ります!」
「そう?」
先輩はなんだかとても嬉しそうだ。
「嫌いなものとかあったら言ってください! あ、あと好きなものも教えてくれると助かります!」
「気持ちは嬉しいけど、無理しないようにね。たまに、でいいんだよ」
そう言いながらも先輩の嬉しそうな雰囲気は変わらなかった。
「あれ、お父さん」
校庭の向こう、メディナに向かう人影はお父さんだった。
どこに行くんだろう。娘の目から見ても自由な人だから、たまに行動が読めない時がある。お母さんもそんな感じだから、まさしく似たもの夫婦なんだろう。なのに娘の私はあんまり似ていないような気がするけど。
「お父上は元気?」
いろいろ考えていたら、
「父は元気ですよ」
「一度、話をしてみたいな。あちらにいたのに会ったことがないから」
「そうなんですか?」
「基本的にフルシュ・ジャリードには誰も入らなかったしね」
「どんな話をしたいですか?」
「うーん、『お嬢さんを僕にください』、かな?」
「駄目です!」
からかわれているのはわかっているのに、頬に血が上る。
「駄目なんだ?」
「……今は、まだ、早い、かなって」
恥ずかしい。
「そう、良かった」
先輩はおかしくてたまらない、というように肩を震わせて笑った。
お父さんと理人先輩が一緒にいる姿を見たのは、それからすぐ──たった数日後のことだった。
部活を終えて寮に帰る途中だった私が、深い夕闇にまぎれるようにメディナの片隅にいた二人に気づいたのはまったくの偶然だった。
声をかけようと思ったが、お父さんのいつもと違う表情が、私を黙らせた。
とっさに、二人に気づかれないように生垣の根元に身を潜める。盗み聞きなんて自分でもどうかしていると思ったけれど、何かがとても気にかかった。
本当は二人の姿も見ていたかった。でも、そうすればきっとどちらかが私を見つけてしまうだろう。
私はひたすら耳をすませた。
お父さんの声がかすかに聞こえてくる。
「……確かに君には夢術士としての素質はあるし、目標があれば努力ができる子だってことも知ってるよ。真面目に頑張れば、エマと同じくらいか、もしかしたらもっと優秀な夢術士になれるかもしれないね」
「ではどうして!」
理人先輩の言葉が少しだけ強くなった。
「君は何をしたいんだい?」
「僕はミフターフのような世界はあまり好きではありません。現実の人間を犠牲にして成り立つ夢の国などなければいいと思っています」
「君は夢に囚われている人たちを助けたい、と言うんだね」
「はい」
「そうだね。でもそれは嘘、じゃないかい?」
先輩は何も答えなかった。
「ダメだよ。これだって一応夢術士のはしくれなんだから」
わかるんだよ、それくらい。とお父さんはなんだか少し怖い声で言った。
「ささやかな事ならともかく、夢の力を自分のために使おうとするなんてあんまり感心できないな」
「僕がそれをするとでも?」
「ああ」
先輩が、くっと笑った。
「……何もかもお見通し、というわけですか」
「何もかも、というか……基本は愛情かな、やっぱり」
「かないませんね」
「そうそう、もうひとつだけ」
お父さんの声が穏やかになった。
「あの子をもう少しだけ信じてやってくれないか?」
私は生垣の影でびくりとした。「あの子」はきっと私のことだ。
「強い子だよ、あの子は。ちょーっと怖がりだけど、それは私のせいだしね」
「信じていますよ」
先輩は間髪を入れずに答える。
「そう。ならよかった。少し心配してたんだよ。あの子は何も言ってくれないし」
「そうですか」
「じゃ、私はそろそろ帰るよ。君の考えが変わったらまた話をしよう」
「……はい」
「優秀な夢術士はいつだって歓迎だからね」
「ありがとうございました」
お父さんの足音が遠ざかっていく。
少し遠くから、声が聞こえた。
「二人きりの世界、だなんて夢でなくても作れるはずだよ」
「……はい」
先輩の返事は、私にもよく聞き取れないほど小さかった。
もうこれ以上ここにいても仕方がない。私は混乱したままそっとその場を離れた。
寮に続く道の途中で、完全に夜になった。
そういえば先輩の進路なんて、考えたこともなかった。先輩はもう三年生なんだし、一年もすればここを出て行ってしまう。
「先輩はどんなところに行くんだろう」
成績は文句なく優秀だと誰かに聞いたことがあった。けっして簡単ではないここの編入試験──正直入試よりもかなりレベルが高いらしい──をパーフェクトな成績でクリアしたのはただの噂ではないらしいことも。
夢術士ってどんなことをする仕事なんだろう。他のことをしながらできるような仕事なんだろうか。
よくわからない。
ともかく先輩は夢術士になりたいらしいことはわかった。
「明日にでも聞いてみればいいよね」
私は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
けれど、そのチャンスはなかなか来なかった。
言い出せなかったわけじゃない。
「あれ、今日も西蓮寺先輩、お休み? じゃ、部室行こっか?」
お昼を一緒に食べよう、と誘った私に、ののちゃんは心配そうな目を向けた。
部室に行っても、その表情は変わらなかった。
「もう今日で四日目だよね」
サンドイッチのフィルムをはがしながら、ののちゃんはこちらを上目遣いで見た。
「うん」
私はミルクティの紙パックにストローをぶすりと突き刺した。
「電話は相変らず?」
「うん、携帯は電源が入ってないか、圏外だって」
「あー、もしかしたら寮に忘れて帰っちゃってるかもしれないなー」
「そうかも」
理人先輩はあれからずっと学校を休んでいる。理由はわからないが、学校にはいないらしい。
携帯電話もつながらないし、連絡も言伝も何もない。
「どうしたのかな」
私は慌ててミルクティを口にした。
でないと声が震えてしまいそうだったから。
「会いに行ってみたら?」
急に、ののちゃんが明るい声を出した。
「会いに? どこへ?」
「生徒名簿か何かあるはずじゃない? それを見れば……」
「フランスの住所だったらどうしよう?」
いくらなんでもそこまでは追いかけていけない。
「そんなの見てみないとわからないでしょ? ここでいろいろ悩んでるより、そうしたほうがいいよ。私、そういうのないか聞いてきてあげる!」
「うかない顔をしているね」
外出許可をもらいに職員室に行った帰りに廊下ですれ違ったのはお父さんだった。
「お父さん!」
「どうかしたのかな? ……もしかして、あの彼のことかな?」
どうしてわかるんだろう。
「お父さんにはなんでもわかっちゃうの?」
「なんでも、なんてそんなすごいことはできないけれど、お母さんと美紅のことなら多少はね」
「すごい!」
「やっぱり愛の力?」
さらりと言ったくせに少し恥ずかしかったのか、お父さんは小さく頭をかいた。
「それで、どうしたのかな?」
向きを変えて、私の顔を覗きこむ。
「お父さん、何か用があったんじゃ」
「娘のこと以上に大事なことなんかないよ。ましてや私はかなりの時間を損しているんだから。……ああ、やっと笑ったね」
お父さんは安心したように目を細めた。その笑顔に押されるように、私は話しだした。
「西蓮寺先輩、この頃学校に来てないの。……電話もつながらないし」
「そう」
「ののちゃん……野々瀬さんに『会っておいで』って言われて、家にいってみようかな、って思って」
私は外出許可証をお父さんに差し出した。
「そうだね。会わないことには話は始まらない。ひとりでいろいろ考えれば考えるほど、つい悪いことを考えてしまいがちだしね」
「そう、かな」
そうとも、とお父さんは笑った。
「追いかけてごらん。美紅は勇気のある子だから大丈夫。私の車を使うといい」
「もし、駄目だったら?」
「そんなこと絶対にない! と思うけど、そうだね、家に帰っておいで。みんなが美紅を大事に思っている場所なら、きっと元気になれるだろう?」
二人に勇気をもらったはずなのに、結局私は立ちすくんでしまっていた。
──理人先輩の家の前で。
正直、こんなに大きい家だとは想像もしていなかった。
おじいさまの家よりは控え目だと思うけれど、洋風と和風の違いもあるし、よくわからない。
御符汰学園には良家の子女が多いとはいえ、普段は寮生活だからあまり差というものを実感したことはなかった。
──どうしよう。
立派な門の端に立ち止まる。
こんなところから入っていいのだろうか。きっとお勝手や裏口があるとは思うけれど、そこに回って呼んでもらうのも変だし。
ああもう、と私は少し悲しくなった。
先輩さえ電話に出てくれたら、こんなことで悩まなくてもいいのに。
「当家にご用のお方でしょうか?」
いきなり聞こえた声に、私は軽く飛び上がった。
「あ、はい!」
声の出所はインターフォンらしい。立ち尽くした私はどうやらカメラに写っていたようだ。
私はこみあげる恥ずかしさを押さえて、インターフォンの向こうの女性に尋ねてみた。
「あ、あの、こちらは西蓮寺さんのお宅でしょうか」
「さようでございますが」
帰ってくる声には失礼でない程度に軽い怪訝さが混じっている。別に悪いことをしようとしているわけじゃないのに、後ろめたい。
「わ、私は御符汰学園で理人さんの後輩の天橋と申しますが、理人さんはいらっしゃいますか?」
急いで尋ねたが、緊張しすぎて言葉が絡まってしまって変な聞き方になってしまった。
「申し訳ございません。今は家にはおりませんが……」
「そう、ですか……」
いてもいなくてもとりあえずともかく! なんてはりきっていたくせに急に気分がしぼんだ。
「すぐに帰ると存じますが、中でお待ちになりますか?」
「いえ、いいです。ありがとうございました」
自分でもわかるほど、声が沈んだ。
また来ます、と続けて門に背を向けた時、門が動き出した。
道の向こうから銀色の車がやってくる。
ここに入るんだ、と慌てて道を開けようとした私に、懐かしい声が聞こえた。
「どうしたの? こんなところで」
理人先輩だった。
車からすらりと降りて、こちらに歩いてくる。たった五日ほど会っていないだけなのに、顔を見たとたん、なぜか涙が出そうになった。
やっと、会えた。
「どうしたの、じゃありません! 電話しても出てくれないし」
「ごめん、電話を寮に忘れたらしくて」
「学校もお休みしてるし、心配、したんですよ」
理人先輩は何も言わなかった。
「どうして」
「こんなところで立ち話もなんだから、入らない?」
さえぎるように言って、理人先輩は私を家に招きいれてくれた。
「お待たせしました」
小ぶりな応接間──きっと気の張らない来客に使うのだろう──で待つこと十分ほど。
「ちょうど甘いものがあったから、お茶にしようと思って」
ドアの外で誰かの手が先輩にトレイを差し出すのが見えた。
「ありがとう。じゃ、ここはいいからよろしくね」
はい、という返事は閉めたドアの向こうからかすかに聞こえた。
「こういうの、好きだといいけど」
薄い皿に色とりどりのマカロンが綺麗に盛り付けられている。
「好きです!」
「じゃ、お茶は任せていいかな」
「はい」
私は慎重に銀のポットを持ち上げた。
「で、君は俺に会いに来てくれたんだね」
先輩が口を開いたのは、カップの中身が半分ほど減ってからだった。
「……はい」
「ありがとう」
お礼を言われることじゃないような気がする。
「なんだか妙な感じがするな。俺の家に君がいるなんて」
「そうですか?」
「うん」
隣に座った理人先輩の手が頬に触れ、髪をすくように下に降りていく。
ぞくっとした。
「いいね」
手が離れる。思わず見上げた瞳の表情がどこか怖かった。
「何が、ですか?」
急にこんなことをする意味なんてわからない。
「ここでもいい。どこでもいいよ。君と二人きりだとほっとするね」
「そう、ですか」
「うん」
「あの、先輩はどうしてお休みしているんですか?」
私は強引に話題を替えた。今日の先輩はなんだか昔に戻ったみたいで、何を考えているのかわからない。
「ちょっといろいろ、ね」
先輩はあまり言いたくない、といった口ぶりだった。
「そうなんですか」
「そんなにたいしたことじゃないよ。今両親はあちらにいるから、ちょっとしたヤボ用がいろいろあるし」
「先輩は病院とか、行かないんですか?」
それはふと思いついたことだった。
二週間二つの夢を往復している間、私はひたすら眠っていた。目覚めてから受けた検査の結果はすべて正常だったけれど、私は定期的に診察を受けるように言われていた。
「ああ、今回は病院にも行ったよ」
理人先輩も思い出したように言った。
「別に何もなかったな。時間の無駄だと思うんだけど、やっぱり心配させたし、結果で見せれば安心するだろうから」
誰のことかは聞かなくてもわかった。
「そうですよね。うちもそうですから」
「ね、少し訊いてもいいかな」
先輩の軽い問いに私はうなずいた。
「はい、なんですか?」
「君は、もし俺が」
先輩は一度言葉を切って、カップに口をつけた。
「俺が、以前の俺じゃなくても好きでいてくれるのかな?」
「先輩?」
何を言われたのか理解できなかった。
先輩が先輩じゃない、ってどういうことだろう。
「わからない、って顔をしてるね」
「はい」
先輩はそっとカップをソーサーに戻した。
「……君が眠っていたのはどれくらいだった?」
「二週間くらい、です」
「そうなんだ? 俺はもう少し長い間眠ってた」
記憶をゆがめられていたとしても、先輩は王子になるまでの長い時間をミフターフで過ごしていた。
「どれくらい眠っていたんですか?」
「内緒」
先輩はソファによりかかった。
「君は起きた後で、何もなかった?」
起きた後。
私は必死で記憶を辿った。
お父さんとお母さんがいて、看護士さんがいて。点滴の管と白い天井が見えたのを覚えている。
「普通、だったと思います」
「そう?」
先輩はその答えには納得できないようだった。
「じゃ、君が立てたのはいつ?」
あれは確か、起きてから二日ほどたった後だった気がする。なんともない、と言い張っても、なかなか動くことを許してもらえなかったのだ。
そして体を起こしたときに感じた違和感とベッドから下りた時の頼りなさを思い出す。人間の体はあっという間にこんなにも弱くなってしまうのかと驚いたことも。
「先輩」
ようやく訊かれたことの意味がわかった。
「そう。俺がちゃんと動けるようになるには、かなりかかったよ」
先輩の表情から笑みが消えた。
「夢の中でいくら鍛えても、起きてみれば意味のないことなんだね。ああでも、学んだことを忘れていなかったのは助かったけど」
私は何も言えなかった
「なかなか君に会いに来られなかった最大の理由、かな。日本に来るほど丈夫になったって納得させないといけなかったし」
わかる気がした。飛んでくるだけならできたかもしれない。でも先輩はそんな姿を私に見せたくなかったんだろう。
「フェンシングは今でも嫌いじゃないけど、なかなか思うようには動けなくなった」
声がどんどん小さくなる。
「もう俺は、あの世界の俺には、君が愛してくれた俺には及ばない。それでも君は俺を好きでいてくれる?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「君の心は絶対に変わらない、なんて保証できる?」
「先輩こそ」
何度も確かめずにはいられない心がかわいそうで、さびしかった。
「俺は、何も変わらないよ、でも」
「先輩がもう私を好きじゃない、って思ってるなら仕方がないですけど」
「今の俺を愛せる?」
「もういいです!」
まだ同じことを繰り返しそうな先輩を止めずにはいられなかった。
「やっぱり、私の言うことは信じてもらえないんですか」
悲しい、と思った。
あの時信じ合えたと思ったのは、私の思い込みだったのか。
「私は、先輩がなんでもできるから好きになったんじゃありません! 何かできるとかできないとかなんて関係ないんです」
先輩を見つめながら一気に言った。
「フェンシングも、勉強もどうでもいいんです。他のことだって。もし先輩の姿が今と違ったって」
ひどいことを言っている自覚はあった。もともと優秀な人だったのだろうとは思う。でも先輩を作り上げてきたのは努力だ。──私に会うためだけに。私の王子様になるために。
でも。
「私は理想の王子様なんかいりません。先輩が好きなんです」
それでも先輩は答えてくれない。どこかぼんやりとこちらを見ているばかりだ。
「好き、じゃダメですか? 足りませんか?」
答えはない。
くじけそうになる自分と、いつになく弱気な先輩への苛立ちが心の中で混ざって煮えた。
──ああもう。
どうしてこの人は肝心なところがわからないのだろう。
「先輩、こっちを見てください」
襟をつかむようにして、顔を上げさせた。
言葉が届かないのなら、こうするしかない、と思った。
冷たい頬を両手ではさみ、思い切って顔を近づける。
少し乾いた唇は、夢の中と同じ感触がした。
放そうとした瞬間、うなじに冷たい指が触れた。
「……っ」
思わず身を引こうとして、こちらを見上げる先輩の切ない瞳に射抜かれてしまった。
私はふと体の力を抜いた。
先輩の腕がそっと背中に回り、そのまま膝をまたがせられるように抱き込まれた。
心臓の音が聞こえるほど近い。
緊張で再び体がこわばってしまうのが、自分でもわかった。
「あの」
「……口を開けて」
ねだるようなささやきは、どこか怖がっているようにも聞こえた。
答える代わりに、唇を少し開いて、先輩の舌を口の中に迎え入れてあげる。
「ん…ぅ」
舌が柔らかく絡めとられた。
角度を変えて浅く深く、何度もくちづけられる。
優しい唇。
優しい指。
そして、泣きだしそうな瞳。
「ごめん」
しばらくして、やっと私の唇を解放してくれた先輩は、私の肩口に顔を埋めてささやいた。
「大丈夫、です」
私は先輩の頭をそっと撫でた。
「ありがとう」
肩が、熱かった。
「あの、放してください」
興奮が冷めてくると、急に恥ずかしくなった。
「まだ駄目」
「まだ駄目って、でも」
「もう少しだけ」
先輩は私に回した腕を解く気はさらさらないらしい。
「せっかく君がこんなに積極的になってくれたのに。君は、好きでない人ならこんなことしてくれないよね、絶対に」
頭に血が上った結果にとったとっさの行動だったけれど、効果はありすぎるほどあったようだ。
「いや、それは、あの」
「可愛いね、ほんとうに」
「ああああの、そうじゃなくて、どなたかいらっしゃるんじゃ……」
私は甘い会話になだれこみそうな先輩を必死で阻止した。
よそのお宅、しかもソファの上で、先輩の腿にべったりまたがっている自分の姿はどう考えてもはしたない。おまけにきつく抱き合っていたせいか、スカートは微妙にまくれ上がっているし、上着もなんだかよれっとしているような気がする。こんなところを誰かに見られでもしたら、と思うと気が気じゃない。
「大丈夫。ここには誰も来ないから」
理人先輩はいたずらっぽくそう言うと、額に軽くキスをしてきた。
「え、でも、さっき」
「そう言ってあるから、来ない」
「いや、でも」
嘘ではなさそうだけど、この人の言うことはどこからどこまでが本当で、どこからどこまでが嘘なのかわからない。
居心地悪くしていると、先輩はため息をついて私を解放してくれた。
急いでソファに戻り、乱れた服をなでつける。
「残念だな」
とりあえず身づくろいをすませた私に、先輩がぼやいた。
「ま、まだちょっと早い、かな。俺はいつでもいいんだけどね」
先輩は何か憑き物が落ちたようにいつもの表情に戻っていた。
「……先輩」
「ありがとう、姫」
私はそれ以上怒る気力もそがれ、冷めた紅茶を一気に飲み干した。