「いつまでも、そんな言い訳で通用するとお考えではないでしょう」
「言い訳ではない。本当のことだ」
「……ラドウ様までがおっしゃるのでは、まことにそうでありましょうが」
開け放たれた窓から聞こえてくる険のあるやり取りに、私は耳をふさいだ。
今日も日が暮れきらないうちから魔界の使者が来ているらしい。
昨日も、一昨日も来た。
私を魔界の花嫁にするためだ、なんていうとんでもない理由で。
一難去ってまた一難。
法王庁の襲撃を退けても、屋敷が静かだったのはほんのつかのまだった。
お父様やお兄様が使者に言っていることは嘘じゃない。
「リトル・ドラクレアは臥せっている」というのは本当だから。
フランの手紙を読んでからの私は、一日のほとんどをこうしてベッドの中で過ごしている。
部屋を出るのは嫌だった。
だって家の中には、フランの思い出の小さなカケラがばらまかれているから。
フランがここにいたのはほんの少しのあいだだけだったのに、キッチンにも庭にもダイニングにも彼の痕跡は残っている。
それが怖くて、でも離れたくなくて。
忘れて欲しい、とフランは言わなかった。思い出して欲しいと、貴女の永遠になりたいと、彼は言っていた。
けれど、思い出すには辛すぎて、でも思い出さずにはいられない。
どうしていいのかわからないまま、結局私は、こうやってベッドで丸まっている。
庭の声が遠くなってからしばらくして、お兄様がそっと部屋に入ってきた。
「……お兄様」
「リトル、起きていたのか」
「また、来たの?」
「ここまで聞こえてしまったか。すまない」
お兄様は不愉快そうに眉を顰めて、私の頬に触れた。
「心配するな、オレ達に任せておくがいい」
「ありがとう、お兄様」
いや、と小さく首を振って、髪をそっと指ですいてくれる。
「それより、苦しくないか? 昨日も何も食べなかっただろう」
「ええ、大丈夫よ。でも、そろそろ休むわ」
眠くなんかなかったけれど、これ以上は話すことも面倒になってきている。
「……ゆっくり休め」
「ええ」
お兄様は何か言いかけた言葉を飲み込むようにして、ふいと私に背を向けた。
『どうか、この先ずっとお嬢様が幸せでありますように……』
『どうか、幸せになってください……』
フランの最後の言葉。
「駄目よフラン、今は幸せになんてなれない……」
だって幸せについて考えるだけで、貴方のことを思い出してしまうのだから。
……誰か、助けて。
そう思ってしまってから、はっとした。
これじゃ、今までと何も変わらない。
今だって、お父様とお兄様に頼りっきり。
自分の悲しみに浸りきって、返事すら人任せにして寝ている。
ほんとにフランの言ったとおりだ。
こんな私を、フランは望んでいただろうか? それで私は幸せになれるのだろうか?
なんとかしないと、と起き上ろうとしてみた。けれど、お兄様の血を、それもわずかにしか採っていない体には、そんなことですら難しかった。
諦めて、くらくらする頭を枕に戻す。目の前に赤い点が浮かび、黒く染まってぐるぐる回る。気持ち悪い。
「ごめんなさい……まだ、駄目みたい」
呟きは涙声になってしまう。
情けなくて恥ずかしくて、悲しかった。
また誰かを頼らなければ、起きることすらできないなんて。
「何も召し上がってらっしゃらないからですよ」
涙のこぼれた目じりを、そっとぬぐわれた。
やさしくて冷たい、この指は──
「フラン? 貴方なの?」
怖くて目が開けられない。
「ええ、私です」
「帰って来たの?」
「残念ながら」
額に当てられた手は、ざらりとした布の感触がした。
「自分でもどうしてここに来てしまったのかわかりかねますが、私の体はもうこの世界に存在しないようです」
「そんな……、だって触っているじゃない」
フランの手に、手を重ねる。確かな感触に励まされて目を開ける。ゆっくりと見上げれば、そこには以前と変わらない、彼の細い姿があった。
「こうやって見えてるんだし」
なのに存在しないなんて、信じられなかった。
「それより、どうしてそんなにお泣きになっているのですか、お嬢様?」
そんなに泣かれては、まぶたがはれてしまいますよ、とフランはベッドの脇に片膝をついた。
「もしかして、魔界の花嫁になられるのはお嫌なのですか」
「あたりまえのこと言わないで。会ったことも見たこともない人のところに、はいそうですか、って嫁げると思う?」
あなたが、好きなのに。
「そうですね」
フランは、あやすように私の髪を撫でた。私はその手を逃がさないように、両手で胸元に引き寄せる。
「ありがとう。……でも平気よ、私が自分でなんとかするから」
なんとか笑ってみせると、彼は優しい顔をした。
「お嬢様は、お強い方です」
「強くなんかないわ。強ければ、フランを戦わせずにすんだんだもの」
「お嬢様を守るために戦うことができて、私は幸せでした。だからそんなこと、おっしゃらないでください」
もう一方の手で、私の手をそっと包む。
「申し訳ありません、お嬢様。けれど私はもう、貴女に何もしてさしあげることができません」
表情は変わらなかったけれど、その言葉は真摯で、寂しかった。
「いいえ、あるわ」
私の返答に、フランは目を軽く見開いた。
「なんでしょう、お嬢様」
「もう貴方は使用人じゃないのよ、フラン。お嬢様と呼ぶのはやめて頂戴」
傷ついたような顔を見て、私は慌ててつけくわえた。
「家族なのにはかわりはないけれど、もうお嬢様と呼ばれたくないの」
「では、なんとお呼びすれば」
「リトル、って呼んで」
フランは、私の顔を見たまま固まっている。私は彼と目を合わせたまま、握りしめた手に力をこめた。といってもたいした力ではなかったけれど。
「……リトル」
彼の唇から、いとおしむようにこぼれた私の名前。
「それからね、もうひとつお願いがあるの」
「なんでしょう、リトル?」
リトル、と呼ぶたびに少しはにかむフランが可愛い。
「──キスして、フラン」
目が覚めたのは明け方だった。
窓の外に、朝焼けの青みがかった雲が広がっているのが見える。
なんだか、昨日までのだるさが嘘のように体が軽くなっている。まるで、血を心いくまで飲んだ後のように。
指先で唇に触れてみる。
あの優しいキスの記憶が、まだ残っている。
手のひらに落とされた、小さな輝きの記憶も。
いつ私は眠ってしまったのだろう。そして──
「フラン!」
昨日あれほどはっきり見たはずの彼の姿は、もうどこにも見えなかった。
けれど、私にはそれが夢なんかじゃなかったことがわかっていた。
だって私の手の中には、緑の葉がきらめくクローバーの指輪が残っていたから。
そして彼に、ちゃんと言えたことも覚えている。
『──きっと、あなたも幸せになって。たとえ、どこにいても』