ふと顔を上げれば、執務室には早い夕方の光が射しこみ始めていた。
(もう、こんな時間か)
ルネは、もう一度書類に目を落とし、末尾に手早くサインをした。
今日は昼からずっとここで座りづめだった。
痛む目を一瞬ぎゅ、と閉じて、開く。腰のあたりがぼんやりと重い。
そろそろ灯りを入れなければ余計に疲れそうだ。ルネは、書類が乱雑に積み上げられた机を離れて立ち上がった。
疲れた目を、秋の色が濃くなった窓の外にやった時。
(あれ……?)
その光景は不意に目に入ってきた。
眼下の庭で、銀樹騎士の一人とアンジェリークが話している。
ルネはそっと窓に近寄り、窓枠に手を添えた。
何を話しているのか聞こえる距離ではない。
黒い髪の騎士は、アンジェリークの話を、長身をかがめるようにして頷きながら聞いている。彼女が口をつぐむと、騎士は笑みを深くして一言答えた。その途端、何やら少し困った風だったアンジェリークの表情が、安堵したようにふわりとほころぶ。何か言いかけたアンジェリークに、騎士は照れたように笑いながら首を横に振る。
何かあるとつい助けの手を差し伸べずにはいられない性分の彼女のことだ。きっと、また小さな事件にくちばしをつっこんでいるに違いない。
一人微笑んだとき、背後でノックの音がした。はっとして窓辺から離れる。
「教団長、よろしいでしょうか?」
部下に返事をしつつ机に戻ったときには、さっきの出来事はルネの脳裏から消えてしまっていた。
翌日、ルネは廊下を教団長として許される限りの早足で歩いていた。本音を言えば走りたいくらいだが、さすがにそんなみっともないことは出来ない。
──アンジェリークが見つからない。
部屋もキッチンも騎士団も、それと一応執務室も覗いてみたが、アンジェリークはそのどこにもいなかった。
聖都の中にいることは確かだが、もし彼女がこの建物の外に出てしまっているのなら、探すにはあてがなさすぎる。
ここを出たかどうかだけでも、守衛に聞いてみたほうがいい。
こうなると、この場所の無駄な広さにすらいらいらさせられる。
せっかく二人とも休みなのに、こうして探している時間がひたすら惜しかった。今日を逃せばしばらくは顔も見られないのだ。彼女には明日から一週間、視察の予定が組まれている。
そんなことはとっくに知っていたのに、せめて昨日のうちに約束を取り付けておくんだった、とルネは歩きながら唇をかんだ。
そもそも、二人揃ってこんなに多忙なこと自体がおかしいのだ。
復興は教団が担うべき主な仕事ではないし、ましてや女王のそれでもない。言ってみれば各都市の行政の仕事だ。
しかし前例の無い事態続きに、各部署で判断のつきがたい案件はたらい回しのあげくにこちらに送られてくるわ、アンジェリークはアンジェリークで「必要とされている」と聞けば、なんとしてでも行きたがるわで毎日がともかく慌しい。ある程度はこちらで弾いているものの、アンジェリークが聖都を留守にすることは多い。
たとえ同じ建物にいたとしても、昼日中にそうそう頻繁に会えるわけでもない。昼食を──これも時間が合えば、だが──一緒にできればまだ良いほうで、廊下ですれ違うことすらできない日もある。これでも一時に比べればかなりマシになってはいるのだが。
代わりのいない役割とはそういうものだと理解はしている。理解はしているけれど。
(ボクだってアンジェリークを必要としてるんだけれどね)
……いっそもう、理由をつけて執務室を一つにしてしまおうか。
そんなことを考えつつ、早歩きのスピードのまま階段を駆け下りようとしたとき、やっと彼女の姿が見えた。
アンジェリークは階段の踊り場脇のアルコーブにちょこんと腰掛けて、何やら手紙らしきものを熱心に読んでいた。少し傾げた頭に光が落ちて、髪がちらちらと輝いている。
「アンジェリーク!」
呼べば、アンジェリークはなぜか慌てたようにこちらを見あげた。
「ルネさん!」
こちらに向けた笑顔が、どこかぎこちない。さっき読んでいたもののせいだろうか。
「どうしたんですか?」
目をやると、手の中に小さく折りたたまれた紙の端が見えた。それを取り上げてしまいたい衝動をなんとかこらえて口を開く。
「今日はキミもお休みなんでしょう?」
「ええ」
「じゃあ、外に行かない?」
「ごめんなさい。今日はちょっと……することがあって」
アンジェリークはさも残念そうにうつむいた。
「……ふうん」
「……ごめんなさい」
「かまわないよ、突然誘ったのはボクのほうだしね」
気軽に言おうとしたのに、声が固い。どうやら自分は思いのほか落胆してしまっているらしい。
誘いを断られたのは、これが始めてだった。
「じゃ、また後で」
アンジェリークに落胆を気づかれないように、どこかに行く途中で軽く声をかけただけ、といった風にそのまま階下に向かう。
今日は別に予定はない。少し外の空気を吸って……それから執務室にこもって残してある仕事を片付けるのもいいかもしれない、と思った。
休日のすべてがお互いのためにあるじゃなし。
彼女だって残念そうにしていたのだし。
ともすればずぶずぶ沈んでいきそうになる気持ちに言い聞かせ、ルネはその日の午後から夜までを、ひとり真面目に執務室で過ごした。
それなのに。
(続く)