仕事を終えたルネの足を止めたのは、彼女の声だった。
「……どうでしたか?」
やや緊張したような声は、廊下の向こうから来た。
もう日は暮れ果ててしまっている。灯こそともっているが、古い建物の中はひんやりと隅々が薄暗い。
彼女に何か応えた男の声は、低すぎてよく聞こえなかった。
「良かった……」
けれど、それを聞いたアンジェリークの声が、ぱっと明るくなる。
はっとして目をすがめてみれば、彼女と話している男は、昨日庭で見かけたのと多分同じ騎士のようだ。
胸が波立つ。
自分の誘いを断るほど忙しかったわけは、彼だったのか?
もしかして、あれからその男と一緒に過ごしたのか。
だからといって、彼女が騎士に自分と同じような気持ちを抱いている、と短絡的に考える程馬鹿じゃない。
博愛主義の恋人に今さら嫉妬させられることなんてありえない。
──馬鹿馬鹿しい。
踵を返そうとしたとき、ふとこちらを見た騎士と目が合った。彼はこちらに向かって軽く会釈し、アンジェリークに一言言う。彼女がくるりと振り向いて、こちらに小さく手を振った。こうなってしまえば、まさか面と向かって無視することもできず、さっさと立ち去らなかった自分を内心で罵りながら二人に近づいた。
黒髪の騎士は、二人に遠慮したのか、静かに一礼してその場を辞した。
「邪魔しちゃった?」
思わず口に出た言葉は、少々嫌味っぽくなってしまった。アンジェリークはそれに気づかないふうに、いいえ、と首を振った。
「もう終わりましたから。……ルネさんは、今日はお休みじゃなかったんですか?」
緑の瞳が、いつもより少しかげって見えるのは気のせいか。
「ちょっと急用が入っちゃってね」
「こんな遅くまで……無理しないで下さいね」
こんな遅くまでこんなところで楽しそうに立ち話をしていた人に言われることじゃないよな、とルネは内心で苦笑した。
「……もし良かったら、お茶でも飲みませんか?」
「悪いけど、今日は遠慮しておくよ。明日は早いんでしょう? キミも早く寝たほうがいいよ」
今朝の意趣返しのつもりはさらさらなかったのに、口が勝手にすらすらと動いた。
「そうですね。……ごめんなさい、私ももう部屋に帰ります」
少ししょんぼりと、彼女が必要もない謝罪をする。
「そうだね、今日はゆっくり休むといいよ」
おやすみ、とその場に彼女を置いたまま、自室に向かう。おやすみなさい、と返す声が遠ざかる。
完璧なマナー違反に罪悪感がわいたが、今日はこれくらいかまわない、とルネは強いて振り返らずに歩いた。
女王一行の背中が街道の彼方にじりじりと小さくなっていく。
ルネは内心、安堵の溜息をついた。
彼女の顔を見ないでいたほうが、今は正直楽だった。
もちろん教団長として見送りにはでなければならなかった。けれどそれは全く儀礼的なもので、個人的な会話を交わす余裕はない。
それなのに、さっきアンジェリークは自分に何か言いかけた。とっさに小さく首を振って制したので、それが声になることはなかったが。
何を言おうとしたのかはわからない。知りたくもない。
これで、しばらくはぐだぐだ考えずにすみそうだ。
ルネは執務室に足を向けながら、忙しさに感謝した。仕事にかまけていれば、考えずにいられるだろう。
けれど、そんな気楽な見通しはたった一日で消えた。
翌日、目を通した女王の随員名簿に、あの騎士の名前があったからだ。
そんなはずはない、と思っていても、気持ちの底のわだかまりは容易に消えてくれない。
仕事に埋めてなかったことにしてしまいたかった物思いは、ふとした時間に入り込んで気持ちをざらつかせる。
変わらずにいることは難しい。
それは聖都で教団長として過ごすうちに痛いほど実感していた。
この聖都だって、ほぼ変わらずにあるのは外側だけだ。内側には人の生も死も、さまざまな感情もある。そんなものが引き起こした事件を目にする機会は、この仕事をしていればいくらでもあった。
考えてみれば、恋人同士になった経緯は別にして、自分は教団長、という地位以外に彼女をつなぎとめる手段はない。
もし、彼女がこれから自分以外を選び直すとすれば。
それでも自分は女王を護り崇める教団長として、彼女と日々顔を合わせていかなければならない。
「……なんなんだよ」
考えるだけでもしゃれにならない。
そうなったとしても、きっと自分はアンジェリークを愛さずにはいられないのだから、なおさらに。
聖都に閉じ込められていたことよりも、それはよほど残酷な冗談で。
「アンジェリーク……」
ルネは書類の散らばった机に力なく顔を伏せた。
こんなことなら、あのとき彼女の言葉を聞いておけばよかった。
たとえそれが、どんなに辛い言葉であっても。