帰ってこなければいい、とは思わなかった。
けれど、一刻も早く帰ってきて欲しい、とも思えなかった。
アンジェリークの顔を見るまでには、ぐらついた気持ちの整理をつけておきたかった。
それなのに、待てばじりじりと長い一週間も、こういうときに限ってあっさりと飛んでいってしまう。
女王一行はつつがなく、そして予定通り聖都に戻り、いつもながらの出迎えの式もあっけなく終わってしまった。
なのに、いつもなら体が空き次第会いに来るアンジェリークが来ない。
一瞬、「やっぱり」と思ってしまった自分が口惜しい。
だからといって、自分から彼女に会いに行く気にもなれない。拒まれることはないにせよ、当惑でもされてしまったらと思うとそれだけで息が詰まる。
「……アンジェリーク」
こんなところで呼んでも来るわけがない。
不在の後にも自分の許に来もしない恋人をみじめったらしく待っているのも、もう潮時だ。
夜も更けた。
ルネはかじかむ指先をこすり合わせた。いくら火の気があっても、無駄に広いだけの執務室はひえびえと寒い。
止めてしまっていたペンの先から、書類にインクの染みが広がっている。ルネはひとつ舌打ちして、無駄にしてしまった紙を乱暴に丸め、執務室を後にした。
私室に戻り、軽い服に着替えたところで、控えめなノックの音が響いた。
「ルネさん?」
彼女だ。
どうして、今ごろ。
反射的にドアの前まで行き、ノブを握ったところで手が止まる。
……もう、いっそ眠ったふりをしてしまおうか。
「……どうぞ」
けれどそんなことをしても仕方がない。
ドアを開ければ、普段着に着替えたアンジェリークがいた。
「どうしたの? こんなに遅くに」
尋ねながら、ドアを大きく開けて部屋に招き入れる。廊下の冷気が彼女と一緒にすっと流れ込んでくる。
「遅くにお邪魔してごめんなさい」
頬が少し赤い。歩き方にいつもの軽い調子がみられない。
疲れているのか、それとも。
そして、こんなに遅くなったのは。
「お誕生日、おめでとうございます、ルネさん」
「……え?」
どんなことを言われるのかと身構えていただけに、それはかなり意外な言葉だった。
「誕生日?」
「もう遅いから、明日にしようかと思ったんですけど、お誕生日のうちにお祝いしたくて」
はにかむような笑顔。でも、なんと言っていいのかわからない。
「ボクの、誕生日?」
誕生日のことなど、忘れていた。
毎日が慌しかったせいもあるけれど、そんなことどうでもよかった。今までは、だれが祝ってくれるわけでもない普通の日に過ぎなかったのだ。
それでも、疑いはしぶとくくすぶり続ける。
もっと早く来られたはずなのに、なぜ。そう思ってしまう自分が卑しくて情けなくて、祝ってもらった嬉しさも目減りする。
ありがとう、と。
嬉しいよ、と返さなくてはいけないのに、すっと言葉が出ない。
いらだってうつむいた視界に、小さな包みが差し出された。とっさに受け取れば、それは手のひらにほんのりと温かかった。。
「……これ、あったかいんだけど」
目を上げると、そうなんです、とアンジェリークが少し恥ずかしそうに頷いた。
「帰ってから大急ぎで作ったんですけど、冷ます時間がなくて。今日はもう遅いから召し上がるのはお勧めできませんけど、包みは開けておいて下さいね」
「じゃ、今開けてもいい?」
柔らかい青色の包装紙をそっとはがす。白い紙箱の中には、どこか懐かしい匂いのする小さな焼き菓子が並んでいる。
帰ってからすぐに来なかったのは、これを焼いていたせいなのか。
心の中にぽつん、と小さな火が灯る。
「これは、オラージュのお菓子なんです。前に行った時に頂いたんですけど、作り方がわからなくて」
ルネさんへのプレゼントにはこれだ、と思って、と微笑む。
初めは勘でやってみたらしいが、どうしてもうまくいかなくて、結局は手紙を書いて問い合わせたのだ、とアンジェリークは言った。
「それに、初めて作ったものをプレゼントにするわけにはいかないでしょう?」
味の記憶もあいまいで、ほんとうにこんな味だったのかすらもわからない。
そこで、オラージュ出身の騎士に味見をしてもらったのだそうだ。
「大丈夫だ、と言ってもらえたんです」
じゃあ、もしかして。もしかしなくても、あれは。
「行く前に作れたらよかったんですけど、ほんとに時間がなくて」
自分はいったい何を不安がっていたんだろう。
これだけ愛されているのに、疑って、不安になって。
「一つだけ、味見してもいいかな?」
返事を待たずに、口に運ぶ。まだ温かい焼き菓子は、口の中で不安と一緒にほろほろと崩れて溶ける。優しい甘さがすうっと染みとおるような気がした。
「おいしいですか?」
自信なさげに胸の前で組まれた指先には、小さなやけど。
その片手をそっとすくいあげ、白い手の甲に唇を落とした。
顔を上げ、今やけどに気がついたというふうに眉を上げて見せると、ちょっと慌てちゃって、とアンジェークは恥ずかしそうに手を引こうとした。
それを押しとどめ、手のひらにも小さくキスをする。
「うん」
嬉しくて、いとおしい。
「ありがとう」
そのまま引き寄せて、きつく抱きしめる。
言葉だけでは伝えきれない気持ちを込めて、ゆっくりと唇を重ねる。
「……大好きだよ」
長いキスで潤んだ瞳が、嬉しそうに輝いた。
心の中でごめんね、とつけくわえ、もう一度キスをする。
可愛い抗議が聞こえるけれど、今の自分は幸せすぎて、アンジェリークを放せそうにない。
今だけじゃなく、きっといつまでも。