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little bird (1)
 もう少しで終わりだ。
 ベルナールは、午後から動かしづめだった手を休め、じんわり重い目頭を揉んだ。そのまま、ふと窓の外に目を移す。もう終業時間が近いせいか、大通りには人が多い。
 今日は宿直ではないし、この調子だと定時くらいにはあがれそうだ。久しぶりにゆっくりできそうだ、と原稿用紙に戻そうとした視線の先に何かが引っかかった。
「アンジェ」
 思わず声に出してしまっていた。今日は早く終われそうだと言ったのを覚えていて、迎えに来てくれたのだろうか、と都合のいい想像に頬がゆるむ。
 後ろ姿でさえ見間違えることはない、愛しい少女は、なぜか大通りの端に立ち止まっている。帽子のつばが時折上下に揺れる。空を見上げているようだ。その動きにつられるように、上空を見てみても何も見当たらない。
 しばらくそうしていたが、アンジェリークが動く気配はさらにない。
 定時まであと十分。仕事はあとほんの少し。
 ベルナールは目の前の原稿用紙と立ちつくすアンジェリークを交互に見た。
「お先に失礼します」
 職業柄、あまり時間にうるさくないのはありがたいことだと、上着を掴み、一段飛ばしに階段を駆け下りながら思った。
「どうしたんだい、アンジェ?」
「ベルナールさん」
 後ろからかけられた声に、アンジェリークは首だけ振り向くようにして答えた。
 覗きこむと、小さな手のひらの中に小鳥のヒナがうずくまっていた。茶色の羽根ももういっぱしに揃って、もう巣立ちも近そうだ。鳴きもせず、ただすくんできょときょとと見上げてくる。
「この子、巣から落ちちゃったらしいんです」
 小鳥を驚かせまいとしてか、囁くような声でアンジェは言った。
「おうちに戻してあげよう、と思ったんです」
と見上げる視線の先に、建物の外壁、僅かな凹凸にわだかまった巣らしきものが見えた。
「あそこが巣だと思うんですけど」
 下からでは到底手が届かないし、かといって二階からでは低すぎる。うまいところに巣をかけたものだと感心しながら、ベルナールはアンジェリークの肩を抱いた。
「わかった。戻してあげようか」
 ヒナを連れて壁をよじ登るのはさすがに剣呑すぎる。ベルナールは近所の花屋からはしごを借りて、巣の近くに立てかけた。
 アンジェリークからそっとヒナを手渡される。小鳥のかすかで速い息遣いが手のひらに伝わってきた。アンジェリークは名残惜しそうにヒナの背中に優しく触れ、元気でね、と囁いた。
 片手ではしごの桟を握りしめ、ヒナを落とさないように気をつけながらのぼる。古いはしごは、足を乗せるたびにぎいぎいと音を立て、つなぎ目から横桟が抜けてしまいそうな気がする。
 下を見下ろせば、はしごを支えるアンジェリークが、これ以上ないほど真剣な顔で見上げていた。
 たどり着いた巣には、手の中のヒナと同じようなのが二羽、身を寄せ合うようにして座っていた。突然現れたベルナールを警戒するようにじっと見ているヒナたちの横に、落ちた兄弟を下ろしてやる。
 親鳥が帰ってくる前に、と慌てて地上に戻った。
「これでいいかい?」
 外したはしごを肩にかけながら訊ねると、
「ありがとう!」
と嬉しそうな笑顔がぱっと開く。大したことではないが、この顔を見るためだけでもこうした甲斐があったな、とベルナールは内心で微笑んだ。
「じゃあ、このはしごを返したら、帰ろうか」
「ちょっと待ってください」
「他に何かあるのかな?」
 アンジェリークはばつの悪そうな顔をして俯いた。
「もう少しだけ、ここにいちゃいけませんか?」
 情でも移ったのだろうか。言葉の意味をはかりかねたまま、ベルナールは頷いた。
「かまわないけど、僕はこのはしごを返してくるからね」
「ごめんなさい。ベルナールさんに何もかもやってもらって……」
 いかにも申し訳なさそうに謝るアンジェリークの頬に手の甲で触れ、ベルナールは笑った。
「確かに僕は君の思うまま、だね」
「そんな意地悪、言わないでください」
 抗議の声を半分背中で聞き流して、その場を離れた。
 戻ってくる道で、彼女がそこにいたい、と言った理由が知れた。薄紅が混ざり始めた空に小鳥がつ、と茶色の弧を描く。親鳥が戻ってきたらしい。途端に巣の中からエサをさかんに催促する、賑やかな鳴き声が聞こえてくる。
「これなら大丈夫そうだね」
 頷く彼女の手を取る。
「帰ろうか」
 今度は肯定の返事が返ってきた。
update : 06.08.18
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