「千鶴」
隣を歩く左之助さんが、私を呼んだ。
「はい」
「おまえ、ちょっと止まってみろ」
「どうしたんですか?」
服や頭に何かついているのかもしれない。私は自分を見下ろした。
「いいから、止まれって」
前に回りこんだ左之助さんは、歩き続けようとする私の両肩に軽く手をかけた。
しかたなく足を止める。
──こんな道の真ん中に立ち止まらせるなんて、いったいどうしたんだろう?
その疑問はすぐに解けた。少なくとも、自分には。
膝が細かく笑っている。
「大丈夫か?」
「はい」
そうは答えたものの、一度自覚した脚の震えはなかなか治まらない。踏み出すと転んでしまいそうなおぼつかなさに、私はその場に立ちつくす。
「どうした?」
その様子を見ていた左之助さんが心配そうに眉を寄せる。
「あの、脚がおかしくて」
私がわけを話すと、左之助さんは私を抱えるようにして道端の石に座らせてくれた。
「やっぱり無理してたんじゃねえか」
「すみません」
着物越しに触れても感じないのに、まだ脚がびくびくと震えているような気がする。
「さっきから下向いて歩いてるから、気分でも悪くなったのかと思ったんだがな」
後ろを向いてみろ、と促されるままに振り向くと、来た道は確かにゆるくだらだらと下っている。
「さっきからずっと急いで上って来てたんだ。そりゃ脚にも来るさ」
左之助さんはすい、と私の横にしゃがみこんだ。
「確かに急ぎは急ぎだ。おまえの気持ちだってわかってる。だけどな、急ぎすぎるな。江戸までもたなくなるぞ」
優しいけれど、厳しい声。
「はい」
私は申しわけない思いでうなずいた。
左之助さんの言うとおりだ。
父様を止めなくては、と思えば、一刻も早く江戸に戻りたくて戻りたくてしかたないけれど、無理をして何かあれば、それもかなわない。
「ああ、いい風だな」
左之助さんの言葉につられて顔を上げる。
木々の間を渡ってきた春の風が、襟元をふわりと抜けた。
遠目に見える春の山は、淡い緑があちこちに萌えて、常緑との濃淡が絵のように美しい。
江戸の春。京の春。そして今、旅路で見る春。
左之助さんとふたり、風に吹かれながら春の山をみることがあるなんて思ったことがあっただろうか。
思いは通じたけれど、それでもまだ何も終っていない。
次の春も、ふたりで見ることができるだろうか。
私たちは何も言わずに、ただ春の景色を眺めていた。
しばらく休むと汗もひいた。脚もかなり軽くなったような気がする。
「そろそろ行きましょうか」
「もう治ったのか?」
「はい」
「ゆっくり休め、って言ってやりたいとこだが、そうすると今夜は野宿になるだろうしな。悪ぃがもう少しだけがんばってくれよ」
左之助さんが差し出してくれた手にすがって、私は恐る恐る立ってみた。
多少だるさはあるけれど、さっきまでのようにがくがくすることはない。大丈夫だ。
私がそうして足元を確かめているのを、左之助さんは黙って見ていた。
私たちの脇を、数人の侍が追い越していった。
どこへ行くのか、みな一様に険しい顔をしている。視線をこちらに向けはしても、興味もなさそうにただひたすら急ぎ足で遠ざかっていく。
「今はみんな、あんなふうだな」
ぼうっと見送っていると、左之助さんはぽつりと言った。
それからしばらく、私たちの道行きはのんびりしたものだった。
私は無理をしないように気をつけていたし、そうすると周りを眺める余裕もできた。
左之助さんは私をいたわってくれながら、ゆったりと歩を進めていた。
鳥が飛んだだの、花が咲いているだの、私たちはくだらない話をしながら歩いた。
……そういう話しかできなかった。
過去の話もこれからの話も、まだ楽しくは話せそうにないからだ。
けれど、それも長くは続かなかった。
春のかすみかと見えていたもやがだんだんと重く濃くなり、空の底が低まってくる。
「雨になるな」
左之助さんは私の視線を受けてうなずいた。
「街道だったらまだなんとかなるんだが」
目を細め、行く手の道を見晴るかすようにしながらつぶやく。
私たちは江戸までの道に街道を選ばなかった。
街道を選べばいろいろと便利だし、早く江戸に着けるだろう。でも、左之助さんは顔を知られすぎている。
──良い意味よりも、あまり良くない意味で。
恨みを抱いている人もきっと少なくない。
だからそうしたのだけれど、それが今は裏目に出た。
きちんとした街道でないこの道には、雨宿りを頼めそうな人家の影は見えない。
「ま、もう少しもつだろ」
気休めを言った左之助さんをあざ笑うように、空は一気に暗さを増してきた。
「ああ、ちょいと急ぐか」
私たちがうなずきあった時、最初の一粒がぽつんと額に落ちてきた。
「あ!」
「走るぞ」
ぐい、と手を引かれる。
「はい!」
走り出すのと同時に、とうとうこらえきれなくなったように大粒の雨が降り出した。
「ここらでいいか」
左之助さんが足を止めたのは、一本の大木の下だった。
私は乱れた息を整えながら、こずえを見上げた。
「だいぶ急いだからな。大丈夫か?」
「あ、はい」
見上げれば見上げるほど、立派な木だ。厚く茂った葉のおかげで、しばらくは雨をしのげそうだ。
私は荷の中から乾いた手ぬぐいを探し出して、左之助さんの肩の滴を払った。
左之助さんは少し驚いたように私を見下ろすと、いいから、と笑う。
「おまえは手前の髪でもふいておけ」
「でも」
「俺は男なんだし、濡れたってどうってこたねぇんだからよ」
それでもためらう私の手から手ぬぐいを取り上げた左之助さんは、それを私の頭にふわりとかぶせて
「ほら」
がしがしとふいてくれる。
「ぐちゃぐちゃになっちゃいます」
「ああ、悪い」
そう言いながらも、私の髪を乱す手を止めてくれない。
前髪の間からこっそり見上げる。
左之助さんがどこかはにかんだ顔をしていたので、私はしばらく何も言わずにされるがままになっていた。
どうしてだかわからないけれど、なんだか涙が出そうになった。
その後、私たちは言葉少なに体をぬぐい、しのつく雨を見ていた。
雨は降りしきっていたけれど、向こうの空が明るんできたところを見れば、夜にはやみそうだ。
風に乗って吹き込んでくる滴も少ない。
このまま濡れずに雨止みを待てそうだと思った次の瞬間、足元に水の塊がざばっと落ちてきた。
枝が、葉の上にたまった水を支えきれなくなったようだ。
私は少しずつ湿り気を帯びてきた幹に身を縮めるようにして、水の砲弾を避けながら雨がやむのをひたすら祈った。
けれどそんな願いとはうらはらに、雨はいきなり土砂降りになった。夏のそれのように、景色が白く煙って見えるほどの雨脚に私は少し不安になってきた。
「左之助さん」
見上げると
「千鶴」
私の上に影がさした。
「あの」
視界をふさぐように立ちはだかった左之助さんは少しだけ目を細めた。
「ん?」
一歩、いや半歩も下がらないうちに、背中に幹が当たった。
「ここで……ここにいて大丈夫なんでしょうか?」
声がうわずっているのが、自分でもわかった。
何度か肌を交わしたとはいっても──それとも交わしたから、だろうか?──こうして左之助さんが近くなると、どきどきと鼓動が勝手に早くなるのを止められない。
「大丈夫も何も、この降りの中を今さらうろうろするわけにもいかないだろ?」
息が届きそうだ。雨の音と胸の鼓動がまじりあって大きくなる。
「きゃ」
急に背中が冷たくなって、私は我にかえった。とうとう、雨が木の幹を伝って下りてきたようだ。木の葉の重なりももう雨を抑えることができなくなったらしく、木陰はもう水浸しに近い。
左之助さんの胸を押すようにして足を踏み出すと、胸元に滴が落ちた。
反射的に見上げる。左之助さんの髪の先で、滴がゆっくりとふくらむのが見えた。
「左之助さん、いけません!」
「何が?」
「濡れてるじゃないですか」
左之助さんは、自分の体で私を雨から少しでもかばおうとしてくれていたのだ。
「しょうがねぇだろ? これでも外で立ってるよりかはましだ」
「そういうことじゃないです」
わざと見当違いな答えを返す左之助さんにじれた私は、彼の影から飛び出そうとした。左之助さんひとりを雨ざらしにするつもりはなかった。
「何やってんだ」
でも、そんな抗議も腕一本でやすやすととめられてしまう。
「さっきも言っただろ? 男が濡れたってどうってこたねえよ」
左之助さんがきっとそういうのはわかっていた。でも、だからといって、はいそうですかと納得はできない。
「いやなんです」
こどもみたいだと思いながら、私はかぶりを振った。
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「私も一緒に……」
「駄目だ。……馬鹿」
みなまで言わせず、左之助さんは口元をゆがめた。
「おまえをそんな目に合わせるくらいなら、はなっからこんなことしねえよ」
「でも」
ああもう、と左之助さんは困ったように眉を寄せた。
「ほんと、こういうやつなんだよなあ、おまえってやつは。……頑固なのもいい加減にしろよ」
小さくすごむふりをされても、怖くなんかない。
「左之助さんにかばってもらえるのは、うれしいです。ありがたいです。でも、左之助さんひとりに冷たい思いをさせるなんていやなんです」
だって私たちは夫婦なんでしょう? と言うと、左之助さんの表情が動いた。
「かわいいことばっかり、言うな」
頬に添えられた手のひらが冷たくて、私は思わず肩をすくめた。
「ほら、こんなに冷たくなってるじゃないですか」
「冷たいって思うのは、おまえの顔が赤くなってるからじゃないのか?」
からかうような声。硬い親指がそっと頬をなでる。
「そんな──」
返事は、左之助さんの唇にさえぎられた。
とっさに逃げようとした体を、強い腕に容赦なく抱きこまれて、私は苦しさに口を開いた。そこに覆いかぶさるように、もう一度唇が合わされる。
はじめは触れるだけだった唇に少しずつ呼吸を奪われて、私はしだいに何も考えられなくなった。左之助さんの舌が優しく唇を割って入り込み、私の舌をゆるゆると絡め取る。
強く弱くなぶられる。粘い水音が耳を侵して、私はどんどん追いつめられていく。
やっと解放された時には、私は震えながら左之助さんの胸の中にしっかりと抱きしめられ、すがりついていた。
は、は、と短い息を繰り返す。左之助さんの匂いが雨の匂いにまじって、なんだかとても生々しくて恥ずかしい。
「千鶴」
促されて背中に回した手には、びっしょりと濡れた感触があった。
結局、左之助さんはずっと私をかばってくれていたのだ。
私はああ、と声を漏らした。
「ん? もっとか?」
のどの奥で低く笑う声。
私をこうしてからかうのも、きっとこのひとの優しさだ。
「ちがいます」
なのに私には、こんな返事しかできない。
「なんだ」
私は左之助さんの背後を指差した。
「もう、やみそうですよ」
雨は、うそみたいにその勢いをなくしていた。肩越しの空から見える雲も速い。
いっときの強い降りは、雨雲が最後に振り絞った力だったようだ。
腕が離れていくと、濡れたところが急に肌寒くなった。
「明るくなってきましたね」
上からはまだ滴は落ちてくるものの、もう霧のような弱い雨が細く見えるだけだ。
「ああ、野宿はしないですみそうだな」
さっきまでの甘い雰囲気をあっさり脱いで、左之助さんも空を見ている。
「行くか」
「はい」
泥で滑る道を歩きながら、私は考えていた。
一歩前を歩く左之助さんの背中は、絞れるほどに濡れている。洋袴の裾ははねあがった泥が半分乾いて、ところどころまだらになってしまっている。
さっきも今も、いやもっとずっと前から、左之助さんはこうして私を守ってくれていた。
ありがたくて、申しわけなくて、そのくせ他の誰でもない、左之助さんにそうしてもらえることを嬉しく思ってしまう自分が恥ずかしい。
お礼を言いたい、と思ったけれど、言葉はきっと受け取ってもらえないだろう。
私は、広い背中にそっと頭を下げた。
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