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ありか


 しばらくして、手を顔から離したアンジェリークは、部屋の中を黙ったまま歩き始めた。ルネは声をかけるタイミングを失ったまま、彼女を目だけで追った。
 窓から窓、暖炉の前まで戻って、そしてまた部屋の中央へ。自分を抱くように腕を軽く組んだまま、憂い顔の彼女はゆるゆると静かに歩を進めている。ドレスの裾が厚い敷物に擦れて、かすかな音を立てる。
 彼女の辛さがわからないわけではなかった。
 自分も過去に通ってきた道でもあった。
 今すぐ抱きしめて、慰めたい。
 難しく考えることなどないと、世界は君がいるだけで十分なのだと。 
 女王になったからといって、宇宙中の問題を彼女がすべて解決しなければならないわけではない、と。
 今だけでも、悩みを忘れさせてあげたいとも思った。
 もしここにいるのが自分ではなかったなら、たとえばオーブハンターたちなら、きっとそうするだろう。
 けれどルネはこの問題が、たとえ運命が導いた相手であっても、他人の言ったことで軽く解決するようなことではないことも知っている。
 彼女が一時とはいえ逃避を良しとしない性格であることも、わかりすぎるほどわかっていた。
 だから今は、何も言えない。
 彼女がこんなに苦しんでいるというのに。
 一番愛しい人が、見えない涙を流しているのが見えるのに。
 
 部屋を不規則に何周かした後、、アンジェリークはテーブルの側で立ち止まった。
 声をかけようとするよりも早く、彼女は、置きっぱなしだったルネのマスクをそっと手に取った。
 「……案外、軽いものなんですね」
 声はまだかすかに震えていたが、涙の跡がないことにルネは安堵した。
 「そうだよ。一日中つけてるときもあるんだし、重かったら大変だったろうね」
 さっきまでの会話とまったく関係のない問いかけに戸惑いながら答える。
 しっかりした外観から、もっと重いものだと思っていたようだ。
 そうなんですか、と軽くうなずいて、彼女は問いを続ける。
 「一日中のこともあるんですか? でもそれって、苦しくないんですか?」
 「苦しいと思ったことはないよ」
 実際、マスクが不自由だと思ったことはなかった。痛くもなく、見た目ほどは息苦しくもない。そしてどんな状況にあっても、表情を読まれることもない。
 それになにより、これがない生活なんて想像もできない。
 「騎士団の中だけでも、なしでは過ごせないんですか?」
 
 「……何を?」
 言われたことが、わからなかった。
 「これをつけること、です」
 アンジェリークは手の中の白い仮面に視線を落とした。
 「ずっと続いてきたルールだからね」
 「でも、ルネさんが教団長だと知っている方だっているのに……」
 「そうだね。でも厳密に言えば、マスクをしないことはルール違反なんだよ。つまり、ボクが規則を破っているってこと。皆が黙っているのは、暗黙の了解ってやつさ。キミとボクがこんなに仲良しだってことみたいに、ね」
 暗黙の了解というよりも、憐れみだったのかもしれないけれど。かすかに顔を赤らめたアンジェリークを見やりつつ、ルネは内心でひとりごちた。
 「それに、あながちこれは理由のない決まりでもないんだよ」
 「理由?」
 彼女が小さく首を傾げる。嫌な予感がして、ルネは早口で答えた。
 「そう。……そんなことより今日はどうしようか。夕方まではふたりきりでいられるよ」
 「どうしてマスクで顔を隠さなくてはいけないんですか?」
 
 やっぱり、そう来ちゃうのか。
 かわそうとしてみても、一度彼女が気にしはじめたら逃げられない。
 話したくなかった。話しても、楽しい話題になるはずがないのに。
 そして、彼女の前の自分はいつも、嘘をつくのが下手になるというのに。
 「顔だけじゃないけどね。ボクはこのままのんびりしててもいいんだけど。お茶でも頼む?」
 「手袋も服もですもの。それもルール?」
 アンジェリークはマスクを手にしたまま、ルネに歩み寄ってきた。
 
 「ほんと、聖都が寒いところでよかったよね。暑いところだと大変だっただろうと思うよ。……で、それって?」
 「ルネさんがルネさんだってわからないようにすること。それも決まりなんですか?」
 「……その格好はとっても可愛いね。でもあんまりゆっくりできないんじゃない? どうせ夕食前にまた着替えないといけないけど着替えてくる?」
 「ありがとうございます。でもどうして何も聞かせてくれないんですか?」
 最後の悪あがきすら、見事まっぷたつにしたアンジェリークが、ルネの前で足を止める。
 半歩前から注がれる強い視線に、もうごまかしはきかないと悟らされて、ルネはとうとう観念した。
 「聞きたいの? 楽しい話じゃないかもしれないよ?」
 「ええ」
 いつもこうだ。
 心配してくれているのはありがたい、と思う。でも。
 いつだって彼女は目の前に見たくないことを遠慮なくつきつけて来る。その真っ直ぐさこそ、彼女の彼女たるゆえんだとわかっているものの、とルネは内心でため息をついた。
 「それじゃ、立って話すのもなんだし、とりあえず座ろうか」
 彼女の手からマスクを取って、つける。馴染み深い感触にすっと心が凪いでいく。
 お茶の支度が運ばれ、アンジェリークにお茶をついでもらったところで、ルネは再びマスクを外して話しだした。

update : 08.05.15
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